二人きりのこの空の下で

「ただいま……。ん? ジータ?」
 とあるマンション。その一室の扉を開けたのは短く切られた暗い茶髪を逆立て、伊達メガネをしている長身の男だった。外は寒いのか厚めの黒いコートを着ている。
 玄関に入って男は首をかしげる。いつもならば奥からスリッパを履いた足音を鳴らしながら出迎えがあるのだが、今日はない。
 さらに玄関とリビングを隔てる扉の向こうは真っ暗。時間としてはまだ夕方だが、この頃は日が暮れるのもすっかり早く、どの家庭でも電気を点けているだろう。
 男、べリアルは迎えてくれる相手が出かけているのかと思い、玄関の電気を点けてみるが女物の靴は綺麗に揃えられたまま。朝、仕事に出かけたときに見た位置と変わっていない。
 珍しいこともあるものだと思いつつ、革靴を脱いで上がるとべリアルの代わりに刺すような寒風を受けてすっかり冷たくなったコートを脱いだ。
 その下に隠されていたのは黒のハイネックセーターに漆黒のパンツ姿。全身黒ずくめだがよく似合っている。
 そもそも顔や体に恵まれすぎているのでなにを着てもこの男は着こなすだろう。
 銀色に輝くリングが嵌められている左手にコートを抱えながらリビングへと向かえば、カーテンは開かれたままで窓の向こうには色とりどりの明かりたちが小さく灯っているのが見える。そしてソファーには、愛しい女の後ろ姿が見えた。
(長めの昼寝か……)
 革張りのソファーの前に回り、金髪の女性の顔を覗き込む。どこか幼さが残る彼女の名前はジータといってベリアルの妻だ。
 彼女とは大学で知り合い、当時異性・同性問わずに遊んでいたベリアルの猛アタックの末に付き合うことになり、結婚して今に至る。
 悪い噂ばかり聞くベリアルに優等生のジータはだいぶ心の壁を作っていたので付き合うまでかなり時間がかかったが、そのときの話は割愛。
 すやすやと眠る眠り姫にベリアルは頬を緩め、分厚いカーテンを閉めてリモコンを操作すると明かりを点けた。
「ぅ……ん、い、や……どうして……ベ、リ……」
「ジータ?」
「ぃ……や……こん、な……」
 ガラスでできたローテーブルにコートを置くと、ベリアルはジータの横に腰を下ろした。至近距離で見つめる彼女の顔は苦しそうに歪められ、眉間には皺。
 わずかに開かれた唇の隙間からは表情と同じ声。明らかにうなされている。
 このまま放っておくわけにはいかない。ベリアルは優しくジータの名前を呼びながら肩を揺する。数回それを繰り返せばスイッチが入ったように彼女は目を覚ましたが、ベリアルの姿を視認すると悲鳴を上げて泣き始めるではないか。
 怯えるようにベリアルから距離を取り、自分で自分を抱きしめる。ぶるぶると恐怖に打ち震えるジータの変わりようにベリアルはレンズの下にある濁った赤を丸くさせた。
「どうしたの? もしかして──空の夢?」
 ジータはたまに不思議な夢を見ることがあった。その内容はファンタジーな世界で自分は騎空団というものの団長で、トカゲのような赤い竜と空のように蒼い髪を持つ少女や仲間たちと一緒に空を旅するというもの。
 彼女としては夢を楽しんでおり、その夢を見た朝はベリアルに嬉しそうに内容を語っていた。また、ベリアルもジータの夢を受け止め、よかったねぇと笑んでいた。
 ジータはベリアルに“恐れ”の感情を向けながら「怒らないでね……」と前置きをし、かすれた声で話しだす。その間も探るような目つきは変わらない。
「ぁ……悪魔のような角と翼を持ったあなたが……狂ったような笑みを浮かべながら、私を殺そうとしていた……。それに私も、あなたを倒そうとして……うぅっ……!」
「それは夢だ。現実じゃない。オレがキミにそんな酷いことをするわけないだろう?」
 縮こまる小さな体を抱き寄せてやり、大きな胸で包み込んでやる。ジータはベリアルの行動に体を跳ねさせたが、髪に鼻先をうずめ、あやすように優しく背中を撫でてくれる手に安心したようだ。ベリアルにその身を委ねた。
「オーケイオーケイ、落ち着くんだジータ。ただの悪い夢だよ。オレがキミを殺そうとするなんてさ……」
「そう……だよね。ごめんね、取り乱して」
「いいや。もう大丈夫?」
「うん。ちょっと顔洗ってくる」
 体を少し離し、ジータを見下ろせば平常心を取り戻した彼女はベリアルを恐れたことを謝罪すると、ソファーから立ち上がって洗面所へと向かった。その背を見つめるベリアルが夢の中の男と同じ顔をしているのには──気づかない。
 ジータがリビングから去ると、ベリアルはどうしても歪んでしまう口を片手で覆いながらメガネを外した。
 肩を震わせ、隠された口からはジータに聞かれないように息を殺した嗤い声が漏れる。その顔は今さっきまでの優しさはなく、卑俗だ。
(少しずつ前世の記憶が戻りつつある。完全に戻ったら──キミはどんな顔をするんだろうなぁ……!)
 前世で敵同士で、現世では本当のキミは大嫌いなはずの男にヴァージン捧げて、番になって、昔のキミなら絶対にくれない真っ直ぐな愛をオレに捧げて……。
 そんなキミが特異点としての記憶を取り戻したら──想像して今にも達してしまいそうだ。
「なあ、早く記憶を取り戻してくれよ。この空の下では……キミとしか思い出を共有できないんだからさ」