柔らかな日差しが窓から差し込む昼下がり。ルシファーによって造られた最初の星晶獣として彼の身の回りの世話をしているジータは、鼻歌交じりに研究所の廊下をひとり歩いていた。
片手には淹れたてのココアが入ったマグカップ。もう片方の手には綺麗にラッピングが施された小さな四角い箱。包装紙で包まれた箱に赤いリボンが目を惹く。大事そうに胸に抱えながら歩くその中身はチョコである。
空の民の風習の中にバレンタインというものがあり、今日、二月十四日に好きな人だったりお世話になっている人にチョコをあげる一大イベント。
空の民のことを積極的に知ろうとしているジータはその風習に倣い、先ほどまで自分の部屋にあるキッチンで用意していたのだ。
ハートや四角、丸など色んな型を使用して固めたチョコ。ただのチョコだと味気ないということでレシピ本を見たり、素材集めに他の島を訪れた際に店で食べたチョコを参考に自分なりにアレンジを施した。
それを渡すのはもちろんルシファーだ。紛れもない本命チョコ。彼は受け取ってくれるだろうか。彼が空の民の風習など下らんと言うのは目に浮かぶが、なんだかんだいって食べてはくれるとジータは考える。
チョコはエネルギーを補給するにも最適な食べ物。常に頭を動かしている彼なのだ。食べないという選択肢はない。
「ルシファー、入るよ~」
執務室に着き、扉をノックしながら伺えば平坦な声で入室の許可が出たことでジータは中に入った。応接室も兼ねているこの部屋は所長が使う部屋ということで広い。
部屋に入ってすぐに目に入るのは窓を背にした位置に置かれた大きなデスク。重厚な革張りの椅子に座りながら書類にサインをしている最中のルシファーはジータに一瞥すらもやらずに淡々と書類を捌いていた。
「お疲れ様。休憩にしよっ?」
デスクを挟んだ正面にジータは立ち、ココアが入ったマグカップとチョコの箱を置くと、彼の手から羽ペンと書類を奪って傍らへ。代わりにマグカップとチョコの入った箱を彼の目の前にずい、と移動させた。
「なんだこの箱は」
「あのね、空の民の風習の中にバレンタインっていうのがあって。今日がその日なの。好きな人とか、お世話になっている人にチョコをあげるんだって。だから……その、あなたに受け取ってほしいなって」
「下らん。空の民の風習など興味はない」
やっぱり考えたとおりになったとジータは内心苦笑いを浮かべるが、ここで折れる彼女ではない。自ら箱を手にするとラッピングを丁寧に解き、箱を開けると赤いハート型のチョコを摘まむ。
「けどエネルギー補給にはいいんじゃないかな? ……ね、はい。あ~ん」
あ~ん、という言葉とともにルシファーの形の整った唇に寄せられる甘いお菓子に、彼は渋々といった面持ちながらもジータのお願いを聞いてやるようだ。
そもそも彼女の強引さに抵抗する方が面倒と考えたのかもしれない。小さく開かれた口にジータはチョコを押し込む。その際にふにっ、と彼の唇の柔らかさを指先に感じてコアが高鳴る。
いつだって彼に触れるとドキドキしてしまう。きっとこの先、何百年、何千年経ってもこの気持ちが変わることはないのだと確信が持てる。それほどに彼のことを大切に想っている。これは彼が自分にとって造物主だからではない。ジータは自分自身の自由意思でルシファーのことを愛していた。
「カカオポリフェノールにスクロースか……甘い」
「ならこっちはどうかな? ビターチョコを使ってるの」
咀嚼しながらの彼の意見にジータは口の中が空になったタイミングで今度は違うチョコを摘んで再び彼の口へ。さすがにカカオからチョコを作るのは時間がかかるので今回はチョコレートを別の島から調達をして、バレンタインのチョコとしたので様々な苦さのものを用意していた。
食べさせたのは丸みを帯びた台形のチョコ。今度は味の好みが合ったのか、ルシファーは無言で口を動かし、最後にココアを一口飲むことでひとつの区切りとした。
「お口に合ったようでよかった。じゃあ私はそろそろ行くね。他の人たちにも配らないと」
「は?」
チョコが数粒残っている箱をマグカップの横に置き、宣言する彼女にルシファーは感情の起伏が少ない彼にとっては貴重なきょとん顔を浮かべる。色素の薄い青の目を少し見開き、小さな口を開けているその表情はジータの密かな好みのかんばせでもあった。
「ほら、研究員の人たちにもお世話になってるから」
ジータはルシファーがなにを思っているのかなど知らずに──お世話になっているからと、いわゆる義理チョコを渡そうと当然のように言い放つ。
彼女にとっては本当にお世話になっているから以外の感情はない。本命はルシファーだけなのだから。チョコだって彼に作ったものに比べれば少し手抜き。彼と同じレベルのを作っていたら日が暮れてしまう。
「…………」
顔を顰め、ルシファーが明らかに不機嫌になるのも当然。ジータは他人がルシファーに向ける感情には敏感だが、自分に向けられる感情には疎い。それはジータにとってルシファーは守るべき存在で、悪意などを事前に察知することが必要と思っているからだが、いかにせん自分に対する恋慕だったり、よこしまな感情に鈍感。
加えて生みの親であるルシファーが呆れるほどのお人好し。人を疑うことをまずしない。そのせいで前に大変な目に遭い、ルシファーに助けられたことがあるくらいだ。
ジータは気づいていないが、研究所内にはジータに想いを寄せている者が少なからずいる。誰にでも親切で優しく接する可愛い女の子。淡泊な星の民たちの中で変わり者とされる者が多い研究所だ。心惹かれるものがいてもおかしくはない。
ジータにそのつもりがなくてもバレンタインというイベントの日にチョコを贈られたら、変な意味で解釈する者だっているかもしれない。それをこの獣は分かっているのか。そもそもの話、義理で渡す必要はないと星の天才は内心吐き出す。
ルシファーは笑顔でチョコを配るジータの姿を想像して不愉快だと眉間の皺をさらに深めると、腹の底から出すような低い声でジータにひとつの命令を下した。
「残りのチョコを全て持ってこい」
「えぇ!? 全部!? 他の人に渡す分がなくなっちゃうよー!」
「他の奴に渡す必要がないと言っている。……俺の命令が聞けないのか?」
「う~ん……。まあいいけど……。ふふっ。チョコ、そんなに美味しかったんだ?」
ルシファーの独占欲からの言葉とはジータは露知らず。頭を使う仕事ゆえか普段からルシファーが意外と食べるので、今回の命令も食欲に関するものだと思ったようだ。
ジータは自分の彼に対する激情は理解しているが、彼から向けられる矢印には気づかない。それはルシファー自身も。彼は愛という感情があることを知っていても、自分の中にそれがあるとは理解できない。
だからこそそれは無自覚な行動だったり、ジータのやりたいことを受け入れてやったりという気持ちに繋がるのだが、未だに自覚することはない。
ジータは理由がどうであれルシファーが自分の用意したチョコを気に入ってくれたことが嬉しかったようで、研究員に配る予定だったチョコを全て彼に捧げようと思考を切り替えた。
さすがに一度に食べさせるのは体に悪いので毎日少しずつ渡すことにする。同じチョコだと飽きもくるだろう。彼女の脳内にはどのようにアレンジして出そうかとルシファーのことでいっぱいになり、顔には自然と甘い笑顔が浮かぶ。それはルシファーにしか向けることのない、正真正銘彼だけの笑み。
──この日、空の民に関する知識に強い興味を持つジータならばバレンタインのチョコをくれるだろうと予想していた一部の研究員の者たちは、想像に反して全く配る様子のないジータに密かに涙を流したとか、流さなかったとか。
終