オム・ファタール─破滅をもたらす男─

 白い壁に囲まれた部屋にあるのはヘッドボード側が壁にぴったりと寄せられている大きなベッドと少しの家具。その寝具に横たわるのはベリアルだった。しかし、今の彼の姿は異常だ。服は上下ともに着ているが、背中で組まれた手や足には鈍い銀色に輝く手錠が嵌めてある。
 そして彼がいるベッドの足側には一人の男の姿。ベリアルに対してよこしまな視線を向け、息を荒げている男はベリアルからすれば見慣れた光景だ。
 ──この状況を除けば。
(ジータほどではないが、なかなかイイモノを持っていたから数回遊んだが……ここまでするとは)
 身動きを封じられ、常人ならば錯乱するであろう状況ながらもベリアルは冷静に思考する。それができるのは彼が普通の人間ではないからだ。
 なぜこんなことになっているのか。それはジータが学校に行ってからのこと。ベリアルの持つスマホにこの男から連絡が入ったのだ。
 本来の性格ゆえなのか。ベリアルは時折ジータ以外の人間といっときの快楽に身を委ねる。いつもは一度きりの後腐れない関係に留めるが、たまにいるそこそこ相性のいい者とは数回遊ぶ。もちろん飽きたら連絡を断つが。
 この男とは何回か遊んでいたが、そろそろ潮時と思っていたところ、彼の方から連絡が入った。ベリアルとすればタイミングがいいと約束の場所に向かったが──。
 待ち合わせ場所は昼間時でひと気がなく、背後から薬を嗅がされたのを最後に記憶は途切れている。
 視線を巡らせ、部屋を見渡すも窓はなく、時計も見当たらない。ここがどこなのか、今の時刻さえも不明。
 思い浮かぶのはジータの姿。男と快楽を共にし、帰宅した後でも時間があると考えていたので今日はおやつの準備すらしていない。
『ママの作ったプリンが食べたい!』
 目を輝かせながら抱きつかれ、おねだりされたのはついこの間。今日作ろうと思って買ってきておいた材料のほとんどは冷蔵庫の中だ。
 この状況では今日は無理だな。そもそも夕飯さえ怪しい。
 さて困ったと内心ため息をつくと、ベリアルは赤い宝石を薄っすらと潤ませ、悲しみに顔を歪めると男に懇願する。これが演技だとは彼の性格を知る者しか見抜けないだろう。
「なあ、頼む……! オレには娘がいるんだ。オレがいなくなったらあの子が悲しむ。お願いだ、頼む! 警察にも行ったりしない! だから解放してくれないか……!? オレにできることならなんでもする。どうか、どうかっ……」
「っ……駄目だ駄目だ! 駄目だッ! ベリアルくんは僕と一緒にずっといるんだ!」
 男はベリアルの哀願に一瞬だけ表情を曇らせたが、次の瞬間には激しくかぶりを振って拒絶する。狂気に駆られて話すら通じないとベリアルは辟易するが、最後に一つの忠告をすることに。
「キミのためにもやめた方がいい。オレが帰らないことを心配した娘が警察に連絡したら遅かれ早かれキミは逮捕される。……いや、あの子のことだ。逮捕される方がマシだと思うことになりかねない」
 偽りの面様も消え去り、凍えそうなほどの凍てつく視線を向けられた男は自分が有利な立場にいるのを忘れてしまうほどの恐怖に、その身を震わせた。

   ***

「ただいま〜! ……ママ?」
 学業を終え、帰宅したジータは玄関の扉を開けると元気よく挨拶をするが、家の中は静まり返っている。
 いつもはこの時間にはベリアルがおり、キッチンに立っていたりリビングで寛いでいるのだが、彼の香りがどこからもしない。
 正確には残り香はあるが、その薄さからして何時間も前のもの。床に目を配らせるも、ベリアルの靴はなかった。
 買い物にでも出かけているのかな? そこまで深刻には考えず、ジータは靴を脱いで上がった。洗面所で手を洗い、リビングに向かうもがらん……としており、違和感が凄まじい。
「連絡もなし、か……」
 ソファーに沈み、スマホを確認してみるもメッセージはゼロ。とりあえずは帰ったことを送り、スマホの画面を消すと大きなため息と一緒に傍らに軽く放り投げる。
 疲れているのもあり、目蓋がくっついたり、離れたりを繰り返す。夕日の柔らかな日差しが窓から入り込むのもあり、少しだけ……。と自らに言い聞かせるとジータは意識を手放した。

   ***

「ん〜……」
 すっかりと暗くなった部屋でジータは身じろぎする。それを数回繰り返し、ハッ、と目を覚ますと広がる真っ暗な空間に夢うつつの意識が完全に覚醒する。
 眠る前と変わらない部屋。壁にかけられている時計を確認すればもう夜の十一時をとっくに過ぎていた。少しだけ眠るつもりが想像以上に眠ってしまったことは、誰しも経験があるだろう。
「ママ……?」
 呼んでみるも、虚しく響き、消えていく。
 心臓が痛い。ベリアルがいないことに脳内には“どうしよう”という感情でいっぱいになる。
 慌ててスマホを確認するも、夕方に送ったメッセージには既読がついていない。
 今までこんなことはなかった。いつも自分が帰ったらママがいて、いないときは必ずスマホに連絡があった。無断で遅くまで帰らないなんてことは初めて。
 念のために電話をかけてみるも、電源が入っていないというアナウンスが流れて繋がらない。
 脳裏によぎるのは最悪の想像。刹那とはいえ恐ろしいことを考えてしまった自分に嫌気が差す。
「そうだ、位置情報……」
 ベリアルはジータ公認で遊んでおり、その際にはうなじを噛まれないように自分からチョーカーを着けている。ジータ特製のGPS付きのチョーカーだ。暗証番号によるロック機能もあり、解除できるのはジータとベリアル本人だけ。
 さらにはベリアルには無断で……とはいいつつも、気づかれてはいるだろう。ジータが作り上げたスパイアプリを入れてある。
 普段使いでは気づくのは難しい存在は、ジータの操るパソコンやスマホから位置情報を始めとする個人情報を確認できる代物だ。
 窓から差す月明かりに照らされながらスマホ画面に視線を食い込ませ、操作していく。まず確認するのはスマホの位置情報。こちらはここからそう遠くない場所で途切れていた。
 反応が消えている時間的に充電が無くなったとは考えづらい。意図的に切られた可能性が高い。次に確認するのはチョーカー。こちらは見た目はただのアクセサリーなので誰にも気づかれないだろう。
 そしてその予想は当たった。
「県外? それに……ここ、周りに家ないし」
 自宅からだと高速を使えば二時間ほどの県。地図アプリで確認すればベリアルがいると思われる家以外は周りになにもない場所。
 最後に調べるのは通話履歴だ。電源が切られる前に送信された情報を見れば、近い時間に誰かと通話していた。電話の後に家を出ればスマホの痕跡が途絶えた時間が場所と重なる。
 番号で検索をかければ過去に同じ番号とのやり取りが複数あるのも確認できた。
「なるほどね」
 基本は一度きりの関係。気に入れば数回遊んでお別れ。そんな気配を感じ取った……ベリアルの魅力に気を狂わされた存在が彼をここに拉致監禁している──。その可能性が高い。
 ここならば人に気づかれにくく、やましいことをするには持ってこいだ。
「ふーぅ……」
 相変わらず焦燥感が身を蝕むが、深呼吸を数回繰り返すことで思考を冷却し、電話アプリを立ち上げると画面をスクロールしていく。
 一覧を眺めると“おじさん”という名で登録されている番号を見つけた。
 ジータがおじさんと呼ぶ男は前の会社でオメガということを隠して働いていたが、それがバレてしまい、絶望の果てに自ら命を絶とうとしていた。
 話を聞くと優秀な研究員というが判明し、研究の役に立つかもしれないとスカウトを行い、今ではパンデモニウムの研究所で働く一員となっている。
 実際にかなり優秀なのでそろそろ秘密裏に行われている研究にも参加してもらいたいと考えていたが、非人道的な実験を行っているので生半可な覚悟の者は弾かねばならない。
 この研究員は自身がオメガということもあり、ジータの目指す未来に強く賛同しているため信頼もある。なので今回の件で試すことにした。忠誠心や目的のためならば犠牲を厭わない強靭な精神があるかどうかを。
 まず夜遅くの呼び出しに応じるか疑問だが、数回呼び出し音が鳴ったのちに彼は出た。
「こんばんは。こんな時間にごめんね。寝ていたでしょう?」
『ええ、まあ……。でも大丈夫です。それより一体どうしたんですか?』
「車を出してほしいの。理由は後で話すから。……お願い。頼れるのはあなただけなの……」
『……分かりました。ジータさんが必要としてくれるなら』
「ありがとう! 後で私の家の住所を送るから、迎えに来てほしいの」
『はい。ではのちほど』
 普通ではない状況だというのに説明を求めない姿勢にジータは満足げに微笑むと電話を切った。すぐに自宅住所をSMSで送り、男からの返事がくると教科書などが詰まっているスクールバッグをひっくり返し、中身を出すとそのまま地下室へと向かう。
 自宅の地下は亡き父ルシファーの、今はジータの研究室がある。さすがにパンデモニウムが所有する研究施設よりかは狭いが、それでも一人で使うには十分な広さがあった。
 部屋の照明を点けたところで一直線に向かうのは薬品がところ狭しと並べられている薬品庫。
 扉を開けると薬液がたっぷりと入った瓶を手にし、次はセンサーが取り付けられている扉へと向かう。虹彩認証装置が取り付けられており、これだけで中には秘密にしておきたいものが入っていることが分かる。
 慣れた様子で解除すると扉の鍵が外れ、中に入ると六畳ほどの広さの部屋に本棚が並べられ、棚には書類などが詰まっていた。
 けれど目的のものは紙切れではない。部屋の隅に置かれている金庫へと真っ直ぐ向かい、こちらも解錠した。
 中身は注射器を思わせる銃だった。先端に取り付けられている極太の針が照明の明かりを受けて鋭く光る。
 特殊な形状の銃に薬液が入った瓶を装着し、シリンダーに充填すると鞄に押し込んだ。
 あとは迎えを待つばかり。そんな彼女の瞳には暗澹あんたんとした光が宿っていた。

   ***

「まさかお母さんがそんなことになっているとは……。でもなぜ警察じゃなくて俺に?」
「警察はすぐに動いてくれる? それにおじさんに連絡したのはあなたを信頼しているから。おじさんなら理由を聞かずに車を出してくれるって」
 現在車は高速道路の上を走っていた。真夜中のドライブはトラックを何台も追い越し、猛スピードで走り抜ける。
 助手席に座るジータはベリアルに起こっていることを話し、突然の電話の理由に男は納得したが、普通ならば警察に連絡する案件。
 男は自ら解決しようとするジータの答えに返す言葉が見つからず、黙ってしまった。
「大丈夫。おじさんは運転手をしてくれるだけでいいの。ママを助けるのは私に任せて」
「……不思議ですね。あなたは子どもなのに。お母さんを助けられそうな気がします」
「もちろん助けるよ。でも……正直、嫌な想像もしちゃう。私の研究はママのためにある。そのママがもし、もし、いなくなっちゃったら……。これ以上研究する気が起きないし、そもそも私、生きていけない……」
「ときには最悪のパターンを考えるのも必要です。でも今は考えないようにしましょう。お母さんはきっと生きてる。生きて、助けが来るのを待っている」
 膝に抱えている鞄を握りしめ、震える声に男はジータを励まし、なんとか元気づけようとしてくる。その心遣いには素直に感謝しつつ、ベリアルの反応がある土地へと向かう。
 高速から一般道に出るとジータの案内に従って男は車を走らせる。途中までは家や店がちらほらと見えたが、目的地に近づくにつれて減っていき、やがて木々や野草がぼうぼうの平地ばかりになった。
「家……が見えますね」
「うん。あそこにママがいると思う。車はここら辺で停めて。私ひとりで行くから」
「待ってください! 俺も一緒に行きます! なにがあるか分からないのに子ども、しかも女の子を一人で行かせるなんて大人として……」
「おじさんの言いたいことは分かるよ。でもお願い。私ひとりで行かせて」
 街灯も家の近くにぽつんとあるだけの道。ジータは家から少し離れた場所に停車させると、一人で行くと告げるが男は自分も行くと言って聞かない。
 それは当たり前のことだが、ジータは申し出を断り、それでもなお食い下がる男の片手を両手で挟み込むように握った。
「ねえおじさん。おじさんはバース性がない世界のためなら、多少の犠牲は仕方がないと思う?」
「今はそんな話をしている場合では……。……でも、その答えはイエス、です。大いなる目的のためには犠牲はつきものだと思います。大っぴらには言えませんが……」
「──そう。よかった。あのね、おじさん。今から私、悪いコトをするの。でもおじさんと私だけの秘密にしてくれると嬉しいな……」
 月光に反射する潤んだ瞳を上目遣いで向け、甘えた声で優しく手を撫でれば男は分かりやすく体を反応させた。
 薄暗く冷たい車内がわずかに熱を帯びる。
「私、おじさんのこと信頼してるの。おじさんは私のする悪いコトに目をつむってくれるって。車の中で理由を話したとき、本当はそのまま警察に行くことだってできた。でもおじさんはそうしなかった。……心の底ではなにか悪いコトが起きるって、分かってたんだよね? けどここまで連れてきてくれた」
 暗く輝くレッドスピネルの魔力に屈した男は、諦めるようにハンドルに顔を伏せた。
「っ……あなたの言うとおりです。だって普通じゃあり得ないでしょう? 子どもが……大切な人を助けるためとはいえ、一人で向かうなんて。でもあなたは俺にとって命の恩人。さらには生きる希望も与えてくれた。だから俺ができることならなんでもします。それが例え人の道を外れるものでも」
 ジータは悲哀のこもった、縋るような表情を崩さずに内心思う。ああ、やはりこの男に連絡してよかった。まさかここまで忠実な部下になってくれるとは。
「分かりました。けど、戻ってくるのがあまりにも遅かったら警察に連絡して俺も中に入ります。いいですね?」
 顔を上げ、覚悟を決めた様子の男にジータは頷き、鞄を持って車の外へと出た。
 聞こえる音は自然のもの。なんとなく空を見上げれば満天の星が輝いていた。いつかママと一緒に山奥のホテルにでも泊まって、夜空を眺めるのもいいかもしれない。
 つらつらと思い、ジータは夜の冷たい空気を感じながら家へと向かう。見た目はごくごく普通の家屋。電気は消されており、真っ暗だ。
 最後にもう一度スマホでベリアルのチョーカーの場所を確認すれば、目の前の家から動いた様子はない。
 酷いことをされてなければいいけど……。と不安に思うが、それ以上に感じるのは胸に秘める煮えたぎるマグマの感情。決して表には出さないが、内側では今すぐにでも相手を殺してやりたいくらいには怒りを感じていた。
(……ママの匂いがする)
 玄関に着いた。微かに感じられるのはベリアルのフェロモン。それが彼が中に囚われていることを示す。
 格子状のスライドドアはどこか懐かしさを感じるデザインで、すりガラスの向こう側は暗くてなにも見えない。時間的に寝ているだろうが、起きてもらわなければ。
 設定としては道に迷った女子高生なので制服を少し乱し、疲れ切った表情を作るとチャイムを鳴らした。静まり返る空間に響く音に反応する様子は見られない。
 何回か鳴らし、戸を叩いているとようやく明かりが点いた。すりガラスの向こう側に人が立っているのが見える。
「すみません、助けてください! 道に迷ってしまって、歩き続けていたらこの家を見つけて……! お願いします、助けて……!」
 悲痛の思いを演じ、再度戸を叩けば中にいる人物は迷っていたのか、少しして鍵を開けてくれた。
「ありがとうございます、助かりました……」
 中から出てきたのは特にパッとしない中年男性。ベリアルがこんな男と数回体の関係があったことに少し苛立ちを感じるが、亡き父と、願わくば自分以外には絶対に本気にはならないと分かっているのでなんとか赤い感情を奥底へと押し込む。
 体を少しばかり屈ませれば乱した制服の胸元から母親譲りの魅力的な谷間が覗き、男の視線は胸へと向かうが、それは数秒のこと。悟られないように目線をジータの顔へと向け、口を開く。
「君のような子どもがこんなところに……? まあいい。とりあえず入りな」
「はいっ、ありがとうございます」
 ジータの疲弊し切った顔を見て、まずは休ませてやろうとでも考えたのか、男は家の中へと招いてくれた。子ども、しかも女という点からしてさほど警戒もしていないようだ。
 靴を脱ぎ、男の後に続いていけば居間へと通された。食卓テーブルを挟むように置かれている椅子の片方に座るように促され、目の前には男が淹れてくれた緑茶の入った湯呑みが置かれた。
 男はジータと向かい合う位置にある椅子に座り、どういった経緯でこうなったのか理由を聞き始める。
 特に嘘をつく必要もないので、ここは素直に答えることに。
「実は……ママを捜しに来たんです」
「ママ? こんな場所に?」
「はい。間違いありません。だって──」
 鞄の中からスマホを取り出し、操作すると画面を男へと突き出す。見慣れない表示に男はきょとんとするばかり。しかし、次の瞬間その顔を大きく崩すことになる。
「ママのチョーカーにつけているGPSの反応が、この家から発せられているから」
 疲れた顔はどこへやら。ジータは薄ら寒さを感じるほどに不自然なにっこり笑顔を浮かべ、男に証拠を突きつける。当然男はまさかの展開にうろたえるが、声を荒げて否定した。それが自分で答えを言っているようなものだというのに。
「なんのことかさっぱりだ! それ、壊れてるんじゃないのかい!? そもそもこんな辺鄙なところに君のママがいるわけないだろ!?」
「ん〜……。そうきたか。じゃあ」
 唾を飛ばしながら喚く男に対してジータは気にせず、男に見せていたスマホを自分の方に戻すと電話アプリを開く。すぐにダイヤルパッドに切り替え、ベリアルが最後に着信を受けた電話番号を打ち込む。
 すると遠くの方から着信を知らせるメロディが流れ出す。おそらく寝室にスマホが置いてあるのだろう。
「今かけたのはママの最後の通話記録に残っていた番号。なんであなたの家から聞こえてくるんだろうね?」
「ぐ……!」
「ママーー! 聞こえたら返事してーー!!」
 この状況で言い逃れはさすがに無理なのか、男は体を戦慄わななかせる。ジータが大声を張り上げれば、別の部屋からなにかが落ちる鈍い音。これでもう言い逃れはできない。
「くそぉぉぉっ!! 娘だかなんだか知らないが、ベリアルくんは俺のものなんだぁぁぁっ!!!!」
「は?」
「ぐぁっ!? 顔に、なにか……!」
 立ち上がり、襲いかかろうとした男だが、ジータにとっては禁句である言葉を口にした。その刹那。
 顔からは表情がすっぽりと抜け落ち、双眸もこれでもかというほど開いたジータは口の開いている鞄から注射器型の銃を取り出すのと同時にトリガーを引いた。
 針から放たれる薬液は男の顔にヒットし、目に入った液体の痛みにその場で目をこすり始める。
「なんだその銃は……!」
「これ? 名前はマッドネスシリンジ。見てのとおり注射器型の銃。そして今あなたが浴びた薬液は少量なら体の動きを奪う薬だけど、投与の量によっては死に至る」
「し、死……!?」
「そう死ぬの。でも……まだ死にたくないでしょ? 教えてくれるよね? ママの居場所」
 開き切った瞳孔に狂気の笑み。見た目はただの子どもなのに得体の知れない“なにか”を感じ取った男は素直に従い、ベリアルを監禁している部屋へと歩き出す。その背には鋭い注射針が突き付けられており、それはおかしなことをすればすぐに殺すという無言の圧。
 着いた先あるのは普通の扉だ。一般的に流通しているもので特に目新しさはない。男はポケットから鍵束を出すと部屋の鍵を解除し、扉を中へと押し込み開けた。
「ママっ!」
 部屋の床にはベッドから落ちてそのままの状態のベリアルがいた。ジータの呼び掛けに対して音を立てるために落ちたが、手足を封じられているので身動きが取れず、助けがくるまで大人しくしていたのだ。
 男を放置して駆け寄ると今にも泣きそうな顔をしながらベリアルを抱き起こしてやる。
「ジータ……。予想はしていたけど本当に一人で来るなんて。バブさんに連絡したのかい?」
「ううん。社長には連絡してない。あとでするけどね。実は……おじさんに助けてもらったの。外で待ってるよ」
「そうか……。なににせよ、助かったよ。ありがとうジータ」
「当然のことをしたまでだよ。前にも言ったでしょ? ママは私が守るって」
 ベリアルをベッドの端に座らせると、外傷がないかを目視するが、手錠以外に傷などは確認できない。もしかしたら服の下にあるかもしれないが、今は手錠を外すことが先決。
 少し離れたところで棒立ちになっている男の対して冷たく「鍵」と手を伸ばせば、男はすくみ上がり、震える手で鍵束を渡してきた。
 鍵穴に鍵を突っ込むが、どれが正解の物かは不明。何回か抜き差しを行い、ようやく手足の錠を解除するとジータはベリアルに抱きつき、世界で一番大好きな人の香りを堪能する。
 オメガは誰しも無意識に、微量のフェロモンを発している。ゼロ距離で、運命の番のフェロモン。ジータの体が火照り始め、このまま見せつけてやるのも男を絶望させるのにいいかもしれないとは思うが、車の中で待機している人物を思い出してキスだけに留めることに。
「ママっ……」
 いつもはみずみずしいが、今は少しかさついた唇にジータは吸い付き、自らの舌で舐めて乾きを癒やすと口内へと侵入する。
 ベリアルの舌が迎えてくれ、戯れるように絡み合う。唾液の混ざる音と隙間から漏れるジータの声が場を淫らな空気で満たしていく。
「んふ……ちゅ、ちゅっ、ふぁ……ママぁっ……ぁ」
 ベリアルを助けに単身乗り込んできたのが嘘のように今のジータは快楽に酔いしれる一人の女の子。目は蕩け、母親との濃厚接吻に身を委ねている。
 それを信じられないものを見るような目で見ているのは男の方。当たり前の反応だ。これは母と娘の母子相姦。人間が本能で忌避する関係。
 普段の生活ではまず見ることはない異常性に男は無意識に「気持ち悪い……」と零す。
 小さな呟きながらもしっかりとジータの耳には届いており、キスを中断すると立ち上がった。
「そうかなぁ? 大好きな人と愛を交わすのは誰だってするでしょ? ただ、その相手が自分を産んだ母親ってだけで」
 男の反応に理解ができないように首を傾げながらジータは一歩前に進む。それに呼応して男が一歩下がる。年の離れた子どもで、しかも女。それなのに怖くて怖くてたまらないのか、男の顔は真っ青。歯も震えが止まらないようでガチガチと音を鳴らす。
「私ね、ママの……世間的に言うと“浮気”は許してるの。だってただの遊びだから。けどやっぱり嫉妬はするし、もし目の前に遊び相手が現れたら」
 ──実験材料にするって決めているの。
「ぁ……! やめろ、やめてくれぇぇぇぇっ! 俺が悪かった! 悪かったからぁッ! お願いだから殺さないで……ッ!」
 罪悪感ゼロの清々しいほどの笑顔を浮かべながらジータは距離を詰め、マッドネスシリンジの針を男の体に突き刺しトリガーを引いた。
 薬液が注入される冷たさに男は泣いて喚くが、もうなにもかもが手遅れ。自由を奪われた体はその場で倒れ、指一本、声すらも出せない状態。
 床には男の涙と口から垂れ流されたままの唾液が小さな水溜まりを形成し、少しずつ広がっていく。
 うつ伏せに倒れている体をジータは足で仰向けにすると、喜悦に満ちたかんばせをしながらしゃがみ込む。
 嬉しくて嬉しくてしょうがない。自らの野望を叶えるためにはどれだけモルモットがいても足りないくらいなのだ。これでまた研究が捗るというもの。
「おめでとう! あなたの体は人類の進化……バース性のない世界を創るために有効活用されるんだよ! これってすごく光栄なことだと思わない?」
「……! ……!!」
 男はなにか言いたそうにしているが、体と意識の繋がりが切断された状態ではどうすることもできない。
 そんな男にベリアルは呆れ顔で肩をすくませた。
「あ〜あ……。だから言っただろ。逮捕される方がマシだと思うことになりかねないって。あのとき素直にオレを解放していれば、いつもと変わらない明日を迎えられたのになぁ」

   ***

「ジータさん! よかった、無事で……!」
 男の回収と自分たちの痕跡を消すように社長……ベルゼバブに連絡したジータはベリアルと一緒に車へ向かうと、運転を頼んだ男が車内から出てきて迎えてくれた。
「こうして会うのは初めてですね。オレはベリアル。この子の母親です。今回アナタがジータを手助けしてくれたおかげで助かりました」
 初対面と年上ということで敬語で礼を言いつつ、ジータと共に後部座席に乗ると車はジータの家に向かって出発するが、男は家の中でなにが起こったかなどの詮索は一切してこなかった。
 最初こそジータが男と喋っていたが、車に揺られて数十分。疲れたのか今はベリアルの肩に寄りかかって寝息を立てており、車内は走行音以外の音はない。
「あの、ジータさんは……」
「寝てますよ。……それよりも、なにも聞いてこないんですね。普通気になるものでは? ナカでナニが起きたのか」
「ジータさんが言っていたんです。“悪いコトをするの”って。大体の想像はつきますし、彼女にとってあなたがどれだけ大きな存在なのかも理解しています。当然の結果でしょう。それに俺としてはジータさんがこれからも研究を続けられることが重要なことなんです」
「……たとえ彼女が殺人を犯していても見て見ぬフリをする、と?」
「……ええ」
 男は一言そう答え、再び沈黙が降りる。
(血は争えないものだな)
 気持ちの良さそうな顔で眠る娘の亡き父を想う。彼はなにが気に入らなかったのか兵器を開発し、顔も知らぬ大勢の人間たちを殺してきた。もちろんそれを悔いたりする感情はなく、命を落とすその直前まで研究を続けていた。
 研究者としてのジータは彼と酷似している。兵器開発には興味がないが、その代わりとしてバース性のない世界を創るために日々研究に勤しみ、闇社会で人体実験を繰り返している。それに対してなにかを思うことはない。
 そして自分はそんな彼や娘を心の底から愛している。他人に対してもルシファーとジータ、それ以外という認識しかなく、正直どうでもいい。
 ──会話もなく車は走り続け、ようやく家に着いた。車に備え付けられているデジタル時計を見ればもう明け方。
「アリガトウ。アナタのおかげで助かった。ところで今日も仕事では? ジータに休みにするように言っておきますね」
「すみません。はは……さすがにこの歳になるとロクに寝ずに仕事は厳しくて」
「今回のことは本当に感謝しています。今後も娘のことをよろしくお願いしますね?」
 車を降りると未だに眠ったままのジータを背負い、微笑むと男は少々頬を赤らめつつ、軽く頭を下げると行ってしまった。
 まだまだ寝ている者が多い住宅街。澄んだ空気に深呼吸を一つするとジータを背負い直し、玄関の鍵を開けて中に。
 リビングに行けば鞄から出したであろう教科書などが床に散乱しているが、片付けるのは後。真っ直ぐ寝室へと向かい、ベッドにジータを下ろすと制服からパジャマへと着替えさせ、自らは半裸になって潜り込む。
 体ごとジータの方を向くも、どこか物足りなくてさらに身を寄せ、彼女を閉じ込めるように片腕を柔らかな肉体に回す。
 目と鼻の先にある娘の顔。男に向けていた狂気を剥き出しにしていた笑みが嘘のように安らか。汗に混じって香る彼女自身の匂いは亡き夫であるルシファーと似ていて、それもベリアルがジータから離れられない理由の一つ。
 相手の意識がないことをいいことに、首筋に顔をうずめて深く息を吸えば馥郁ふくいくたる香りに満たされなかった衝動が少しずつ満ちていき、ベリアルの双眸もゆっくりと閉じられた。

   ***

 事件から数日後。ジータの手助けをした男は通常どおり出勤して働いていたが、若いながらも父親であるルシファーの跡を継いでこの研究所所長であるジータに連れられて専用のエレベーターで地下へと向かっていた。
(エレベーターに乗るにも厳重なセキュリティを突破しないといけないなんて……。一体どこに向かっているんだ?)
「あの、ジータさん」
「おじさんは私のやることに目をつむってくれるんだよね?」
 扉の前に立つ白衣の少女に声をかければ、彼女はエレベーターの扉を見つめたまま問いかけてきた。それは着いたら分かると暗に言っていて「はい」と答える以外の言葉を許さないような圧があった。
 思えば人類の進化、バース性のない世界を創ると言いつつもそれに繋がるような研究や実験は職場では見たことがなかったような気がする。
 進化を促す研究。それも人体に対してだ。表立ってはできなのかもしれない。
 果たしてこの鉄箱の行く先にはなにが待っているのか。閉口し、エレベーターの音を聞いていると不意に動きが止まった。扉が開き、そこには上とはまた違ったフロアが広がっている。
 ジータに続いてエレベーターを降りれば、室内の様子が外からも分かるようになっている部屋が幾つもあった。その中には上では見たことのない研究員の姿があり、それぞれの仕事をこなしている。
 中にはベッドに縛り付けられている人間相手になにかを投与している者もいた。暗めのピンク色の髪が目を惹く白衣の女性。その横顔は神経質な印象ながらも美しい。
「びっくりした? この人たちはね、私の考えに賛同してくれた人なの。その誰しもが──バース性に人生を振り回された」
「人生を……」
 思い出すのはジータに出会ったときのこと。彼女と出会わなければ今頃この世にはいないだろう。絶望のどん底にいた自分に差し伸べられた救いの手。
 救世主──まさにメシア。その彼女が母親、たった一人の人間のために神に中指を立てて宣戦布告し、ある意味では世界を壊そうとしている。はたから見れば狂っているだろうし、もし自分がアルファ、もしくはベータだったらその考えに共感できたかどうか。
 ──マッドサイエンティスト。彼女にぴったりの言葉だとは思うが、嫌悪感はない。むしろ愛する人のためならば他はどうなっても構わないという揺らがぬ精神には感銘を受けるほど。
「例えば、さっきの部屋にいたピンク髪の人。名前はコカビエル。彼女はアルファだけど……そうだ。おじさんはアルファの人にどういうイメージがある?」
「アルファですか? そうですね……なんでもできる優秀な性別かと」
 世間一般的なイメージがそうだ。現にリーダーだったり、重要な役職に就いている人間は当たり前のようにアルファ。生まれながらにして輝かしい人生を約束された性別。
 オメガは発情期の関係でそういった役職には就けない。薬で制御しているとはいえ、絶対はない。いつヒートを起こしてしまうか。
 番がいたとしても他人がフェロモンの影響を受けないだけで本人はグズグズになってしまう。仕事どころではない。
「彼女はアルファの──優勢思想が強い家系に生まれた。けれど彼女はアルファの割には出来が悪く、親に辛い言葉を毎日投げかけられてついには家出した」
「それを助けたのがジータさん……?」
 容易く想像できてしまう。そして現にそういう家があるのも事実。一族はアルファの血しか認めず、アルファ同士でしか結婚しないという。
 コカビエルがどれほどの能力を持っているのかは分からないが、周りが優秀なアルファだらけの場所で劣等感に晒され続け、誰も助けてくれなかったらと思うといたたまれない。
「彼女の周囲の人間は低評価をしていたけど、小さなことでも褒め続けていたら才能が開花し、今では私の補佐を務めるまでになった。……出来が悪いと言われていたとはいえアルファ。高いポテンシャルを秘めていたけど、あの人の親は引き出せなかったみたい」
「……悲しい話ですね」
 バース性がなかったらまた違ったのか。それとも同じ道を辿っていたのか。それは分からない。
 ジータの研究が現実のものになったらアルファだから、オメガだから、などの価値観もいつの日か風化するのだろうか。
 感傷に浸りながら歩いていると、目的の部屋に着いた。何の変哲もない扉。内部の様子は外からは分からない。一体なにが待っているのか。
「さあ、入って」
「は、はい……」
 促されて扉を開けると、部屋の中心部には椅子に座るように背もたれが上げられた手術台があり、そこには手足を拘束されている男の姿。
 意識はあるようでジータの姿を見るなり泣きながら悲鳴を上げるが、猿ぐつわをされているためくぐもった声にしかならない。
「この人はママを監禁していた人。モルモットは何人いても足りないからね。あのあと回収するように頼んだの」
 人がひとり消えても特に騒ぎにならず、回収できる力を持つ人間。どこに依頼したのかはなんとなく想像できた。このパンデモニウムの社長であるベルゼバブだ。
 直接会ったことはないが、全世界にその名が轟く大物。ジータは軽い調子で“社長”と呼んでいるので、その仲は相当深いと思われる、
 彼ならば痕跡を残さずに人をさらう仕事のエキスパートを抱え込んでいてもおかしくはない。世界中にコネクションがあるのだから。
 噂では大国のリーダーであっても彼には逆らえないという。まさに闇社会の帝王。世界を裏から支配する唯一絶対の王。
「おじさんをここに連れてきた理由は一つ。優秀なのと、信頼できると思ったから」
 言いながらジータは近くに設置されたステンレス製のワゴンに置かれている薬瓶を手に取った。たっぷりと液体が入っている透明な小瓶にはラベルが貼られているが、なんの薬かは不明。
 瓶の隣に置かれていた注射器の封を破ると薬液を吸い上げ、こちらに差し出してきた。
 部屋のライトに反射する鋭利な先端。自分の運命の分かれ道を決める針。
「この薬をその人に注射してくれるよね?」
 誰でも分かる。受け取らなければ自分が死ぬと。誰にも言えぬ秘密を見せたのだ。協力を拒み、生きて上へ戻れる保証などない。
 そもそも、男にとってこんなものは彼女への忠誠心を示す行為の一つでしかないが。
 なんの躊躇いもなく注射器を受け取ると、迷い無く針を男の腕に刺し、薬液を注入する。薬が体内に入ったことで暴れだすが、すぐに大人しくなった。
 モルモット──実験に使うと言っているのだ。簡単に殺したりはしないだろう。だが、男にとっては今すぐにでも死んでしまいたいと思うほどの苦痛がこれから待っている。
「おめでとう。これであなたもここの一員ね」
 差し出された手。力強い頷きと共に握り返せば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ようこそ。私のラボへ。歓迎するわ」