小さな夏の恋物語─初恋は、夢の中のあなた─ - 3/8

第二章

 翌日。未来はやや暗い表情をしながら通学路を歩いていた。
 いつもと変わらぬ道。周りの生徒たちは友人と楽しげに話をしたり、ひとりで歩いている子も未来のような顔はしていない。
 つい昨日まではこの中に馴染むような雰囲気で登校できていたのにな……。と、蒼人のためとはいえ変わってしまった事実に重い息を吐き出すと曲がり角から出てきた蒼人の姿を見つけ、未来はパッと晴れた表情をすると駆け寄った。
「おはよっ! 蒼人!」
「おはよう未来。朝から元気だね」
 そう言いながら蒼人はくあっ、とあくびをひとつ。
「また夜更かし?」
「あはは……。最近寝付きが悪くてさ。……はぁ」
 原因は明白。織部と不破。蒼人はあの子への封筒を織部から取り戻すために彼らに従っていた。彼らの命令でしたくもない喧嘩をしたりして怪我をすることも増えた。
 けれどそれももう終わり。未来が不破の恋人になるという契約を受け入れたときに封筒は返してもらったし、織部との契約も破棄された。さらに付け加えて織部に未来の大切な人たちに近づかないようにと不破に約束させた。
 未来の方から条件を出せる状況ではなかったが不破と織部両名ではなく、織部のみに絞ったおかげかは不明ながらも不破は未来の条件を受け入れた。
 不破本人は直接なにかする、とは考えにくいのであの内容でも大丈夫だと信じたい。
「蒼人……。っ、そうだ!」
 忘れるところだった。蒼人に封筒を返さなければと未来は立ち止まると、蒼人の歩みも止まる。鞄を肩に掛けたまま中身を漁る未来にどうしたの? と蒼人が言いかけたそのとき。差し出された一枚の紙に言葉を失う。
「どうして、それを……」
「それは──」
「俺の女になるという契約を、田尻未来が結んだからだ」
「不破君!?」
「不破っ……! お前、なにを言ってるんだ……!?」
 未来の代わりに答えたのは低い声だった。その持ち主は未来の斜め後ろ姿に立ち、蒼人に冷たい視線を向ける。
 不破の言葉に賑やかだった周囲が一気に静かになる。誰もが足を動かせないでいた。不良で有名な不破が、真面目で明るい未来を彼女にしたというのだから。
 集中する好奇と嫉妬、怒りが混ざる視線に居心地の悪さを感じ、俯く未来を見て彼女も自分と同じ目に遭っているのだと理解した蒼人は不破の胸ぐらを掴もうと踏み出すが、それに気づいた未来が彼を庇うように前に出て蒼人を止めた。
「やめて蒼人! ……不破君の言ったことは本当。卒業するまで彼の恋人になる契約をしたから、あなたと織部君の契約を破棄させて、私の大事な人たちに彼が近づかないように約束した上でこれを返してくれたの。だから、お願い。やめて……!」
「そんな、未来……! どうして……!」
「もう、傷つく蒼人を見たくなかったから。蒼人は悪くないのに変な噂を流されて、なにも知らない人たちに冷たい視線を向けられて……。最近だと怪我も増えたし。必死になって耐えていた蒼人よりも、見ている私が……耐えられなかった。……ごめんなさい」
 懺悔するように告白する未来を最後に不破は「終わったか?」と未来の手首を掴むことで蒼人から離す。
「来い。田尻未来」
「分かった。蒼人、今度は盗られないように気をつけてね。それじゃあまた教室で……」
「未来…………」
 不破の後ろを歩く未来の背中は蒼人の目にはとてもか細く見えた。どんどん遠ざかっていくふたり。周囲の人間たちの時も動き出したなかで唯一蒼人だけがその場に立ち尽くしていた。
「オハヨウ、間男くん。健気じゃないか。大事な人のために自らの身体を犠牲にしてキミたちを守るなんてさ」
「ッ……! 織部ッ……!!」
「おっと。オレに怒りをぶつけるのはお門違いだ。オレは別に彼女が契約を突っぱねたってよかったんだ。それでも受け入れたのは彼女自身。その感情は未来ちゃんに向けな」
 取り巻きの女子たちに囲まれながらやってきた織部に肩を組まれた蒼人は反射的に腕を振り払い、織部を睨みつける。
 彼の瞳に宿る激しい赤色の感情は今にも殴り掛かる勢いだが、実際に行動には移さない蒼人に織部は分かりやすくため息をついて肩をすくませると学校へと歩き出す。
 去り際に「……つまんねー奴」と罵る言葉が彼から放たれたが、蒼人はなにも言えずにいた。ここで織部と殴り合いの喧嘩をしたら未来の気持ちを無駄にしてしまうような気がして。
 自分が織部たちに従っているとき、未来はこんな気持ちだったのか。
 悔しさに拳を握り締めれば、持っていることを忘れていた封筒が蒼人の心情を表すようにぐしゃりと形を変えた。

   ***

 未来が不破の恋人になったという事実はまたたく間に広がり、未来は様々な“目”を向けられるようになった。嫉妬、羨望、失望、好奇……。常に女子を連れている織部ならばまだしも、女の気配が全くない不破の彼女ということで注目度が違った。
 居心地の悪いのは当然。幸いなことに直接害を加えてくる人間はいないが、陰口は聞こえてくる。蒼人に向けられていた悪意がそっくりそのまま未来へと移った形だ。
 精神的負担は大きいが、事情を話した蒼人や櫂、多くは聞かないが困ったことがあったらすぐに言うようにと気にかけてくれている有田先生の存在もあり、未来は今日も不破の女として一緒に登校していた。今のところ不破からの接触は朝のみでそれ以降はない。
 彼の恋人になって一週間が経とうとしていたのもあり、最初は互いに無言で未来は不破の後ろを歩くばかりだったが、周りに生徒が少ないのと、その少数も不破と距離を取っているので未来は思い切って聞いてみた。
「ねえ不破君。不破君は……どうして私を彼女にしようと思ったの?」
「……ただの女避けだ」
「は?」
「効果は想定どおり。奇声を発する有象無象どもにはうんざりしていたところだ」
 心底嫌だったのが口調から分かり、未来は苦笑いするしかない。少し前までは織部の取り巻きに混ざって不破に近づいていた女子もすっかりと鳴りを潜めているのだから。ちなみに不破が彼女たちを視界に入れたことがあるかどうかは、言わずもがなである。
「不破君、顔だけはいいもんね。でもなんで私?」
「お前は俺に対して良い感情を持っていない。そばに置いても他の塵芥どもと同様な反応は取らないと考えた。同時に、御しやすい女だったからだ。菊田蒼人と織部の契約破棄をちらつかせれば、愚かなほどお人好しなお前は自らの身を捧げるだろう。……相違があるか?」
「ナイデス。……けど、ただの女の子避けとして置いておくならあんなこと、しなくてもよかったよね?」
 未来の非難も最もである。ただの置き物として扱うならば無理やり唇を奪う必要なんてなかった。しかし不破は未来の問いに答えることはない。そもそも、自分でも分からなかった。なぜあんなことをしたのか。
 未来の前を歩く不破の表情は彼女からは見えないが、彼は眉間に皺を寄せていた。己のことだというのに分からないのが腹立たしい。
 今まで疑問に感じたことは納得いくまで答えを追求してきた。ならばあのときに感じた衝動の原因を解明するまで突き詰めるべきか。
 黙ってしまった不破にやっぱり答えてくれないのかな……と未来が思っていると考えに耽った不破は急に立ち止まり、振り向く。
「今の俺にはその問いに対する答えを持たん。……因果関係の検証にも今後は付き合え」
(あれ〜……? なんか、変なスイッチを入れちゃった?)
 なにやらおかしな方向に話が進んでしまったが、微笑する彼の笑みが女性と勘違いするほどに美しいことに未来は思わず見惚れてしまう。涼やかな青の瞳にわずかに上がる口角はまさにクール系美少女。
 いやいや不破君は男の子だから……。と自分にツッコミを入れる未来を置いて不破は再び歩き出す。数秒自分の世界に入り込んでいた未来も現実に引き戻されると慌てて彼の背中を追いかけるのだった。
 ──朝、不破とともに教室に入れば未来はようやく解放される。その後は授業を受け、放課後になれば部活に行ったり、塾に行ったりと不破と付き合う前と変わらない。
 不破と織部は朝はいてもいつの間にかいなくなっているので、帰りも振り回されるということはなかった。
 昨日までは。
「み〜くちゃん。一緒に帰ろうぜ?」
 午後の授業はいなかったが帰りのホームルームにはなぜかいた不破と織部。教室内には一定の緊張があったが、その短い時間も終わると各々部活に行ったり、帰宅したりと教室にいる生徒たちもまばらになる。
 未来も部活に行こうと荷物を纏めていると、肩に手を置かれて降ってくる言葉に未来自身や周囲の人間たちの空気が張り詰める。特に蒼人は分かりやすい表情をしており、未来は彼に目配せすると目を閉じ、小さく首を左右に振る。私は大丈夫だからと。
「ファーさん直々のご指名だ。羨ましいねぇ」
「私、部活があるんだけど」
 織部の手を肩から払い除けると未来は彼ではなく窓際の席に座ったまま、頬杖をつきながら横目でこちらを見ている不破に対して強い口調で訴える。
 三年生の未来からすれば今年は最後の大会があったりと練習できるなら少しでも多くしておきたいのだ。言っても無駄だとは分かっている。それでももしかしたら……という希望的観測に賭けてみるが、席を立ち未来のところへとやって来た彼からの言葉は、
「お前に拒否権はない」
 未来の意思など尊重しない一言だった。ブレない彼に未来は想像していたこととはいえ、歯噛みすると彼女が言えないことを代弁するかのように櫂が声を上げた。
「それはあまりにも酷いんじゃないか? 未来にとって今年は最後の年。夏には大会もあるんだ」
 物怖じしないしっかりとした態度に不破はゆっくりと彼の方へと顔を向ける。どこか異様な雰囲気を肌で感じ取った未来は腰を浮かしかけるが、その前に彼の口からはとある人物の存在が出ていた。
「お前には確か……姉がひとりいたな」
「やめて不破君! あなたの言うこと聞くから……! だから……!」
 勢いよく立ち上がったせいで椅子が大きな音を立てる。未来は不破の視線から櫂を庇うように前に立つと両肩を縋るように掴んで懇願する。“姉”としか言っていない不破だが、その裏に隠された意味を推し量るなど容易いこと。
 彼らに未来の周囲の人間の家族構成など知られていて当たり前。自分のせいで友人だけでなく、その人の家族にまで魔の手が及ぶと考えたら動かずにはいられなかった。
「……フン。殊勝なことだな」
「じゃあオレたちは校門前で待っているから。早めに来るんだぜ?」
 ささやかな反抗の芽も摘み、未来から気力を削ぐとふたりは教室を出て行く。騒然とする場。双眸に薄っすらと涙の膜を張りながら帰り支度を再開する未来に蒼人と櫂はいたたまれなくなり、駆け寄った。
「悪い、未来。俺を庇って……」
「いいの。もともと私が決めたことだから。それに不破君に抗議してくれて嬉しかった。ありがと、櫂」
「未来! もう有田先生に頼ろう! 僕の契約のためにこんな……!」
「蒼人も心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから。……あなたも、私と同じことするでしょ?」
「それは……」
「じゃあ行くね。顧問の先生に用事ができたからって言ってこなくちゃ。また明日ね、ふたりとも」
 彼らの心遣いは本当に嬉しくて。けれど逃げないと誓ったのだ。どんなにつらいことがあっても耐えてみせる。未来は無理やりの笑顔を浮かべると教室をあとにするが、その背中はとても寂しげで。
 残された蒼人と櫂は自分たちの無力さを悔やむように拳を握り締めるのだった。

   ***

 顧問に用事があるからと部活を休むことを伝え、外に出た未来はそそくさと不破のもとへと向かった。校門前で待つという言葉がなくとも、織部に群がる女たちの集団を見れば彼らがどこにいるかなどすぐに分かった。取り巻き女子グループの場所に織部あり。織部あるところに不破ありだ。
 肝心の不破は校門の壁に寄り掛かり、腕を組んで目を閉じ、耳障りなノイズに不機嫌を隠さず表に出していた。しかし彼のファンたちは一生懸命になにやら話しかけており、その度胸は未来も感心するほど。
「来たよ。不破君」
 きゃあきゃあ言っていた女子たちが未来の声が届いた瞬間に黙り込む。一斉に視線が集中し、怨嗟の感情を向けられるも未来はあえて無視する。彼女たちの感情までもいちいち気にしていたら身が持たない。
 一歩前に出れば不破の周囲にいた女子たちはモーセの海割りの如く道を開けた。その先にいる不破は青の瞳に未来の姿を入れると姿勢を直し、不満そうな眼差しを向けてくる。その目はもっと早く来いと物語っており、実際に口にした言葉は未来のイメージどおり。
「遅い。帰るぞ」
「ちょっ、あのねぇ……!」
 これでも早めに来たというのに不破の自分本位っぷりに腹が立つが、きっと彼にこの気持ちを伝えても“だからなんだ”と取り合ってはくれないだろう。
 未来は怒りと呆れ半分に柳眉を逆立てるが、不破はどこ吹く風で校門の外へと歩き出してしまう。どこに行くのか不明ではあるが、付いていくという選択肢以外未来には許されていないので大人しく従った。
「お〜い、オレを無視してふたりの世界に入り込まないでくれ」
 完全に蚊帳の外である織部は苦笑いしながらふたりを追いかける。さすがの取り巻きたちもそれに続くことはできず、ただひたすらに嫉妬と憎しみのこもった目をひとりの女生徒に向けるしかなかった。
(どこに行くんだろう……)
 見慣れた田んぼ道。下校途中の生徒もちらほらと見え、不破と織部が未来を連れて歩いている様子が気になるのかここでも視線に晒されるが、それよりかも現在不破がどこに向かっているのかが気になった。
 未来の自宅に送っていく──というわけではなさそうだ。彼女の家に続く道に入る前に別の道を曲がってしまったから。
 この先には住宅地が広がっている。田舎なのでそこそこ間隔があいて家が建っていた。もしや不破の家に連れて行かれるのか。男子が女子を家に……。これが例えば蒼人や櫂だったら遊びに行く感覚なのだが、不破は違う。
 正直身の危険を感じるが、彼は織部ではないのでそういう目的ではないかもしれないとは考える半分、彼も思春期の男子ということでもしかしたら……という想像もよぎってしまう。
 前を不破、後ろを織部に挟まれてまるで犯罪者気分だ。織部に関しては逃げるなよ? という圧の意味も込めて未来の背後についている。不破や未来に一方的に話しかける口調は明るいが、一定の間隔を保ちながら歩く彼の行動の裏にある意味に未来は滅入るばかりだ。
「え、不破君の家ここなの……!?」
 遠くから見ても立派すぎるほどに立派な平屋の日本家屋。住んでいる人はお金持ちなんだろうな〜という感想をいだきながら不破の赴くままに足を動かしていた未来だが、いざその家のそばまで来ると彼は格子状の引き戸を開けて中に入っていくではないか。
 開かれたままの引き戸の向こうには広々とした平屋建てが構えており、まるでドラマや映画の中に入り込んでしまったような、不思議な感覚が支配して自然と立ち止まってしまう。
 想像していなかったことに未来はぽかん、と口を開けて黙り込む。何度も瞬きをして動けないでいると、織部が隣に立った。
「ここがファーさんの家だ。ちなみに隣はオレの家ね? 他の子には内緒だぜ?」
「……織部君、女の子連れ込んでそう」
 彼に言われて隣を見れば洋風な二階建ての住宅が建っていた。和と対になるような建物もかなり大きく、両名の懐事情を簡単に思い描くことができる。自分は月々のお小遣いの中でやり繰りしているというのに。
 加えてよくない噂、おそらく事実をよく耳にする織部ならばこの広い家に女の子を何人も連れ込んでいてもおかしくない。
「そう見える? これでも遊びとプライベートは分けていてね。まあ未来ちゃんなら招待してもいいけど」
「結構です!」
 線引きしていることに納得がいきつつも嘘か本当かは未来は知らないし、興味もないので話を終わらせると、深い息をひとつ。気を取り直して引き戸の向こうへと行けばすでに不破の姿はなかった。どうやらもう中にいるらしい。
「お邪魔しまーす……」
 強制的に連れて来られた身ではあるが、他人の家に上がるのだ。一般的な礼儀は必要だというもの。後ろから「律儀だねぇ〜」と揶揄する声が聞こえたが安定のスルー。
 外見どおり屋内も広いが人の気配が全く感じられない。横に設置されている靴箱の中は分からないが、外に出ている靴は不破のもののみで他の家族のものは見当たらない。
「家の人っていないのかな……?」
「あ〜、まあ色々事情ってヤツがあるのさ。キミがこれからこの家でファーさんとふかぁい仲になっても咎める人なんて誰もいない」
 中学三年生とはいえ中学生である。それなのに保護者がいないというのはどういうことなのか? とは考えたが織部が言うように各々の家庭の事情というものがある。
 そして不破以外住んでいないということは、暗になにかあっても助けてくれる存在は皆無ということ。
(変なこと起きなきゃいいけど……)
 靴を脱いで上がったのはいいもののスリッパは見当たらないので靴の向きを整えると──どこに行けばいいのか分からずに立ち尽くすしかない。眼前に広がる廊下は左右に分かれており、彼はどちらの方向に行ったのか。
「ファーさんってばホント自由人っていうか……」
 未来に続いて上がってきた織部の言葉には少しの呆れがあるが、好意的なもの。目星はついているのか廊下を曲がってすぐの障子戸を開ければ当たったようで未来に手招きをしてくる。
 開けられた場所へと固い面持ちで向かえば広がるのは未来の自宅よりかも広々とした居間。全面畳張りになっており、どこか懐かしい雰囲気を感じる。
 長方形の座卓に座布団がふたつ。不破は未来から見て座卓の奥側に置かれている座布団に座りつつも傍らにある巨大なビーズクッションに体を預けて読書をしていた。
「えっと……」
 自分はどうすればいいのか。不破に視線で訴えてもこちらに一瞥すらくれないので織部に向ければ、彼も特になにも聞かされていないのか肩をすくませるばかり。
「まあ自由にしていいんじゃないかな。ほら、そこに座って。……それじゃ、オレは家に帰るよ」
「えっ!? 帰るの!?」
「フフッ。オレってば気の利く男で通ってるからさ。ま、キミも寛げばいいよ。ファーさんがオレ以外を家に上げるなんて初めて……いわばキミはトクベツなんだからさ」
 意味深に呟くと織部はウィンクして行ってしまった。部屋の外で玄関の開閉音が聞こえ、施錠音まで。なぜ彼が不破宅の合鍵を持っているのか。
 とにかく彼が本当に帰ってしまったのだと知り、未来は居心地の悪さを感じながらも仕方なく不破の向かい側、入ってきた障子戸側に置かれている座布団にちょこんと座ると傍らに鞄を置く。
 互いに無言のまま、壁に掛けられている時計の時を刻む音だけか広がる。
 チクタクと一定の間隔で鳴る音に未来の脳内に様々な考えが浮かんでは消えていく。不破はどういうつもりで自分を家に招いたのか。未だに目的が分からない。話をするわけでもなく、ましてや変なことをしてくるわけでもない。ただ一緒の空間にいて、過ごしているだけだ。
 自分はどうするべきなのか。織部は自由にと言っていたがこれといってやりたいこともない。小説でも鞄の中に入っていればそれで時間を潰すこともできる──ああ、読み物なら持っていた! と未来は鞄を開け、教科書を取り出す。ついでに宿題の存在も思い出した。
「と……とりあえず、宿題やるね……?」
 不破からの返答はないが、駄目ということはなさそうだ。筆箱とプリント、教科書を座卓に広げると黙々と問題を解いていく。手を動かす度にシャーペンが独特の音を立て解答欄が埋まっていき、プリント問題は三十分もしないうちに終わってしまった。
 だが宿題自体はワークがまだ残っており、それが終わっても予習がある。不破がいつ解放してくれるのかは不明だが、なにもすることがない、という点がないのは救いか。
(本当になんなんだろ不破君。ときどきジッと見てくるし、まるで観察されてるみたい。……もしかして今朝言っていたナントカの検証? に関係する?)
 緩やかに過ぎていく時間の中で時折不破を感じることが数回あり、かといってなにを言ってくるわけでもない。未来も言葉ではなく、こちらを見る彼の目を見つめ返してみたりなどしたが、寒空を連想させる美しい瞳を見ていると妙に気恥ずかしくなって彼女の方から逸らしてしまう。
 性格はともかくとして、顔だけはいいのだ。顔だけは。クラスの中でもトップに位置し、もしかしたら全校生徒で比べても織部と一、二を争うかもしれない。言い方は悪いが田舎には似つかわしくない美貌。
 綺麗な顔をしているのにすごく強くて、ミステリアスで、スペックも高い。こう考えるとどれだけ属性が盛られているんだと逆に笑えてくるほどだ。
 しばらくして。急に喉の乾きを覚えた未来だがここは他人の家。いくら好きにしてもいいと織部が言い、不破からもなにも言われないといっても勝手に行動するわけにはいかない。
 それでも一度自覚してしまうと我慢が難しく、未来は思い切って声をかけてみることにした。
「あの……不破君。喉が乾いたから、その……飲み物とかないかな……って」
「……冷蔵庫に麦茶が入っている。勝手に飲め」
 不破は分厚い洋書へと視線を落としたままだが未来が欲しい答えをくれた。この時期にぴったりな飲み物に未来は透明なグラスに氷がたっぷり入った香ばしいお茶の味を想像し、乾きがさらに強くなる。
 腰を浮かせて立ち上がったのはいいものの、肝心の台所はどこだろう? と不破の方を向けば、彼は未来が口を開く前に顎を軽くしゃくり、目的の場所を指し示す。未来の立ち位置から見て左側の障子戸の向こうに台所はあるようだ。
 ありがとう。短くお礼を言い、さっそく障子戸を開ければこちらも居間と同様に広く、綺麗に整理整頓されている。ここで料理をすれば気持ちがいいんだろうな、と思うくらいには。
 冷蔵庫も大きめで上の扉を開ければ食材や調味料が入っており、当然のように規則正しい並び方。綺麗好きなのかな? と思い浮かべながらドアポケットに入っている筒型の冷水筒を取り出し、並々と中身が入っているそれを近くのテーブルに置くと食器棚からコップをふたつ取り出す。
「不破君、氷使わせてもらうねー」
 とりあえず申告し、ガラスのコップにそれぞれ適量氷を入れて麦茶を注げば完璧。先にひとくち貰えば、口の中にひんやりとした香ばしい香りが広がり、ごくごくと一気に飲んでしまった。ここが自宅だったらぷはぁ〜! と、幸せ感がある声を上げているところだが、他人の家なので大きく息を吐く程度に収める。
 改めて自分のコップに注ぎ直し、麦茶ポットを元あった場所に戻すと未来は両手に麦茶を持って居間へと戻った。不破の席にコップを置けば、彼の怪訝そうな目が未来を映す。
「さすがに私だけってのはね」
 簡素に告げて自分の席に戻れば彼がコップに口を付けているのが見え、未来の口元がほんのりと上がる。
 ──結局この日は一時間半程度で解放された。しかし翌日の放課後も、
「帰るぞ」
「……分かった」
「未来……」
 帰りのホームルームが終わると不破は未来の机までやってきて一言告げると未来は了承するも、帰り支度をするその手は重く、教室を去っていく横顔は暗い。蒼人も彼女が耐える気持ちが分かるからこそ、その小さな背中を見送るしかなかった。
 剣道部の顧問に休むことを告げれば教師も理由が分かっているのか特になにも言われなかった。心配そうな目を向けるが、未来を助けたくても助けられない。
 不破たちに注意して職を失ったかつての同僚を何人も見ているせいだ。未来もそれが分かっているので逆に申し訳なさを感じてしまう。
 そろそろ期末テストが始まるので部活は休みに入るが、それが終わったら? また休む?
 せっかく今まで頑張ってきた剣道。しかも今年で最後なのだ。こんなところで終わりたくない。なんとか不破君にお願いしてみようと計画を練る未来の姿は再び不破宅にあった。
 不破と二人きりの居間。麦茶を飲みながら今日もなにをしろと言われるわけでもないので勉強をしていると、どうしても分からないところがあった。
 ここの答えはなんだっけ? 数学の問題集とにらめっこをしていると、
「これはこの公式を当て嵌めればいい」
「え……、あ、ほんとだ……。ありがとう……」
 不破はいつの間にか隣におり、座卓の上に置かれた筆箱からシャーペンを取り出すと問題集の空いているスペースにさらさらと公式を書いていく。その字は未来よりも美しく、不破らしさが感じられるものだ。
 まさか彼が移動したのに気づかないくらいに集中していたなんて。彼の家だというのに警戒心が緩んでいることにもっとしっかりしなければと己に言い聞かせつつも、勉強を教えてくれた彼の気まぐれに本当になにを考えているのか分からない人だと未来は思う。
 その後も不破は未来の手が止まると横から口を挟み、まるで家庭教師のよう。淡々とした教え方だが理解がしやすく、未来の頭に楽に入ってくるのだから不思議だ。
(勉強を教えてくれるのは嬉しいけど、視線が痛い……)
 午後の六時を少し過ぎた頃。もうそろそろ帰らなければと片付けを始めた未来は未だ隣に座って頬杖をついてこちらを見てくる不破の視線に心が落ち着かないでいた。
 最後の方では最初に比べて口数が多くなり……といっても、問題に対する解説だけだが、冷たい口調ながらも非常に分かりやすく話してくれた。正直塾の講師よりかも記憶に残り、次のテストに活かせそうである。
「あのっ、勉強教えてくれてありがとう。テストも近いから助かっちゃった。……じゃあ私、帰るね」
「待て」
「っ……!? ふわきゅ……んッ!?」
 さあ帰ろうと不破にお礼を言い、腰を上げようとしたところで掴まれる片腕。そのまま不破の方へと引っ張られると密着する体。脳がなにが起きているのか理解できない状態で感じるのは不破から漂う清潔な香り。
 ひんやりとした甘い彼の香りは果実をイメージさせるとてもいい匂いでどこか懐かしさも感じる。思考が幽香ゆうこうに蕩けてしまいそうになったとき。ここまでの流れを時間に直すとわずか数秒。ようやく未来は自分が不破にキスをされているのだと理解した。
 唯一自由になっている手で彼の肩を押そうとしたが、未来は思い出す。
『次に拒絶をしたらどうなるか』
 彼の言葉が脳内に反響する。ここで彼を突き放したら周りの人間に被害が及ぶかもしれない。守りたい人たちがいるからこそ、不破と契約したというのに本末転倒になってしまう。
 上げられていた腕から力が抜け、下げられる。下唇を唇で挟み、舌を這わせてくる不破を受け入れるため、頑なに閉ざされていた口を細く開き、少年の舌が未来の中に侵入してくる。後頭部にも手を回され、押し付けられるとさらにふたりの距離はなくなっていく。
 ぴちゃぴちゃと不破の舌に絡めとられ、ゾクゾクとした未知の快感に未来の背が粟立つ。口内の隅々まで舌が這わされ、硬口蓋を舌先で撫でられるとくすぐったい。
(くち……きもちいい……)
 彼を拒絶することなく受け入れれば未来の体は素直に快楽を享受し、頭の中に霧が立ち込めて正常な判断ができなくなっていく。
 口の中がぬるぬるして気持ちがいい。不破君からいい匂いがする。様々な感情が渦巻き、頭がさらにぼんやりとしてくるのはきっと上手く呼吸ができないから。
 角度を変える際に隙間ができたと思ったら、すぐに彼の舌が入り込んで未来は翻弄されるばかり。苦しさと気持ちよさから目には涙の膜が張っていき、ふとした瞬間に決壊する。
 さすがにこれ以上息が吸えないのは駄目だと脳は判断したのか、不破の肩を押すように何度も叩けば彼はようやく未来を解放した。
 ふたりを繋ぐ淫らな糸。咳き込みながら不破から離れればプツリとそれは切れる。
「反応は悪くないがこの程度で呼吸困難に陥るとは……。呼吸方から教え込まねば駄目か」
「けほっ……、ころされるかと思った……」
「キスでか?」
「そんな死因嫌すぎる。……それで、これも検証に必要なことだったの?」
「……そうだな」
 彼はそれ以上語ることはなかった。次の日も、その次の日も未来から部活の時間を奪って不破は自宅に連れ込み、なぜか勉強を見てくれてその見返り? に帰り際にはフレンチキスをされるのが常になっていた。
 未来も最初は不破に脅されているから大人しくしていたが、こうも何度も同じことをされると慣れというものができてしまって抵抗感もかなり減っていた。事務的になった、というのが正しいか。
 彼の香りの心地よさやキスが齎す背徳の味を感じつつも、これは恋人の戯れではないからとひたすらに無に徹していた。
 これは契約。彼は蒼人を傷つけた人。愛なんてない。ただの検証実験。
 自分に言い聞かせていないと、彼のどこか優しさが感じられる口づけに意味を見出してしまいそうになるから。