堕天司と娘の終末綺譚 - 4/4

堕天司と娘の終末綺譚④

「これから三日ほど家を空けることになった。食料は貯蔵庫にたくさんあるし、足りなくなったら近くの島に出かけて買っておいで。ああでも騎空艇の操縦がまだ慣れてないか……?」
 ここは楽園。緑豊かで明るく、優しい風が吹き抜ける森の中に隠れるようにひっそりと建つ家に住まうのは、自らを堕天司と名乗るベリアルという男と、その男に育てられているジータという人間の少女だった。
 ジータにはとある年齢から前の記憶がない。
 彼女はもともと捨て子で、ベリアルが拾ってからはこの島で暮らしていたが、階段から落ちて記憶喪失になってしまった。
 ベッドの上で目覚めたとき、なにも覚えていないことに恐怖するジータをベリアルは抱きしめ、自分のことを“ママ”だと告げた。
 血の繋がりはないが、ジータにとってベリアルはたった一人の親。それからは彼の庇護下ですくすくと成長し、今では子供と大人の狭間の年齢までになった。
 そんな二人以外にこの島に住まうのは大人しい動物のみ。一度も他の人間たちが島にやってこないのは、ベリアルが特別な結界を展開しているからだ。
 その影響で誰もこの島を認識することができない。それがこの島が楽園たる理由。
 非常にゆったりとした時間が流れる箱庭、玄関先でのやり取り。ジータは過保護になっているベリアルに対して苦笑した。
 ジータは“特異点”という特別な存在でベリアルの望みを叶えるためにも必要とはいえ、まるで小さな子供を相手にしているような言葉。
 思い返せば当たり前のようにベリアルといつも一緒だったため、三日も離れたことがなかった。
 二千年以上前に星晶獣としてルシファーの手によって造られた彼からすればジータは生まれていないにも等しいかもしれないが、少しは年齢も考えてほしいものだ。
 ジータももう十五歳。留守番くらいは一人で出来る。
「うふふっ。過保護だよママ。私もうひと通りのことはできるよ。騎空艇の操縦だって。だから心配しないで。いってらっしゃい、ママ」
「……それじゃあ行ってくるよ。いい子で待ってるんだぜ? ジータ」
 未だに納得していない様子のベリアルに微笑みかけ、行ってらっしゃいのキスを送ると渋々……といった面持ちでベリアルは三対の巨大な蝙蝠羽を広げると、空へと飛び立って行った。

「う〜ん……味が違う……」
 翌日。昨日は問題なく過ごせたが、朝起きて誰もいないというのは違和感が凄まじかった。いつもいる人がいない。これがこんなにも寂しいものだなんて。
 朝食は軽く済ませ、自主鍛錬をしたり、森の動物たちと遊んでいると時間は過ぎていき、いつの間にか昼食の時間も過ぎていた。
 いつもならばベリアルが作ってくれたおやつでティータイムなのだが、今日は一人。
 なぜか無性にアップルパイが食べたくなったジータはベリアルに教えてもらったレシピ通りに作ったのだが、彼の味にはならない。
 不味い、というわけではないが、どこか物足りない。
 日当たりのいい窓際に置かれているテーブルで独りごちると、ジータは再びパイを一口。決して満たされない時間を過ごした。
 ──太陽は沈み、月が支配する時間。辺りは静まり返り、夜の闇が這い寄る。
 夕食を簡単に済ませたジータは寝室のベッドの上でぼんやりと天蓋の天井を見つめていた。いつもの就寝時間よりだいぶ早いが、このまま起きていても仕方がないと思った結果だ。
 カーテンが引かれていない大きな窓から入る月明かりが、天蓋付きの大きなベッドを優しく包み込む。
 普段は隣にベリアルがいるので温かいのだが、今は寒い。部屋の温度の話ではない。精神的なもの。
 薄暗い視界を目を閉じることでとざすと、ママもこんな気持ちだったのかなとジータは想像する。
 生みの親であるルシファーに、この世のどんな言葉でも表現できない感情を抱いている狡知の堕天司。
 ルシファーを喪った彼は空虚な日々を送ったのだろうか。いや、現在進行系で送っているのではないか。そばに誰がいても満たされぬコア。
 ジータがベリアルと一緒にいることで満たされるように、ベリアルもルシファーがいなければ満たされないのだろう。きっと。
(昔のママは……どんな感じだったんだろう……)
 ルシファーのそばで日々を重ねる男の姿を思い浮かべるが、二千年前の彼を知らないのでイメージできなかった。それでも今よりかは満たされていた……と、ジータは考える。
(そういえば……昔は寝てたって言ってたっけ?)
 ルシファー亡き世界で眠ることをやめた彼も昔は眠っていたそうだ。その寝顔はどんなものだろうか。
 寝ても覚めてもベリアルのことばかり考えてしまう辺り相当なマザコンだとジータは思うが、こればかりは仕方のないこと。
 ジータの中には、ベリアルしかいないのだから。

「う、ん……」
 眉を寄せ、少しずつ持ち上がる瞼。視界に映る薄い景色が鮮明になっていく。
 完全に目を開けてもまだどこか寝ぼけ眼なジータはモヤがかかってはっきりとしない頭で首を左右に動かし、視覚情報を得ようとすれば、知らない景色に一気に覚醒する。
 大きな木に寄りかかって眠っていたジータの目の前に広がるのは白い壮麗な建物。楽園にはない建造物にジータは自分は寝室で眠っていたはず……と、思い返しながら己の服を見れば、薄桃色を基調にしたワンピースを着ていた。さらには茶色のサイハイブーツまで履いている。
 おかしい。起きているときはこの服装だったが、寝るときは違う服だった。それに靴も履いていない。
 いきなりの訳の分からない出来事に頭を抱えたくなるが、深呼吸することで落ち着くと、ここは夢の中なのではと仮説を立てる。
 明晰夢。こういうタイプの夢は見たことがないので言い切れないが、その可能性は高い。
 とりあえずこのままここにいても仕方がないと、ジータは夢から覚めるまで探検することにした。
 静寂に包まれるここは安寧を思わせる緑が溢れ、遠くの方には白いガゼボがある。
 周りの景色からしてここは中庭のようだった。どこからか珈琲の匂いも漂ってくる。
(これ、本当に夢? 味以外の感覚はある……よね?)
 食べ物を口にしていないので味覚は分からないが、それ以外の感覚はある。夢だというのに。
 不思議な夢……。などと思いながらジータは建物の中に入り、探索を続けていると、向こう側から人がやって来た。
 白いローブ姿でフードを深く被っているので顔は分からないが、ジータが知る空の民の格好とは明らかに違う。
 隠れてやり過ごせる場所もないので彼女は意を決し、こちらに向かってくるローブ姿の人へと声をかけるが、反応はない。
 もしかして無視されている? とも考え、今度は大きな声で話しかけるも、ジータの声が虚しく響いて消えるだけ。
(見えていない……?)
 ここまでしても一ミリの反応も示さないのだ。その可能性はある。
(それにしてもあの服……。ここはどこなんだろう……)
 知らない服に場所。夢ならば早く覚めてほしい。そう思いながら硬い廊下を靴音を鳴らしながら歩いていると、また別の姿が見えた。
(羽!? ってことは……天司?)
 前方に見えるのは六枚の白き翼を背負う銀髪の天司と、ジータに背を向ける位置に立ち、銀の天司となにやら話している様子のローブ姿の人間。この人間は天司と同じ髪色をしていた。
 隣には清廉さを感じる白き軍服を身に纏う男の姿があるも、銀髪の人間と同じくジータには背を向けているので顔は分からない。が……。
(軍服のあの人……)
 軍服の男の髪色はジータがママと慕い、愛する人物と酷似している。
 気づかれることはないと考え、大胆に距離を詰めれば、白き羽を持つ天司の顔を見てジータは瞠目した。
 彼は──ルシファーに瓜ふたつだったのだ。
 ジータは直感した。この人が天司長ルシフェルだと。
 ベリアルがずっと隙を伺っている相手。公明正大で無視無欲。完璧な彼がそれを見せることはないが。
 さらなる確信を得ようと近づくと、話が終わったのかローブ姿の人物は先へと行ってしまう。軍服の男もその後を付いていく。
 ルシフェルはジータがいる方向へと歩いてくる。鮮明に見えるその顔は以前見たルシファーの顔と同じだが、大空を思わせる青い瞳はなんて優しいのだろうか。
 ジータが見たルシファーの顔は目を閉じていたものだが、とても冷たい印象を抱いた。それとは正反対のもの。
 星晶獣の生みの親である男の最高傑作。間近で見て納得したジータは我に返ると、慌てて男たちの後を追いかけるのだった。

 二人の男はとある部屋へと入っていき、ジータも続いて入室する。部屋は広く、ローテーブルを挟むようにソファーが置かれ、奥の方には本がぎっしりと詰まった本棚がいくつかある。
 きょろきょろとしていると、銀髪の男は重厚感がある革張りの椅子に腰掛け、大きな机に広げられている紙を手に取った。
(やっぱりルシファーさまだ……! と、いうことは……)
 銀髪の男の顔をようやく拝めた。
 やはりルシファーだった。ルシフェルと同じ瞳の色をしているが、彼の色は冷たく輝くアイスブルー。
 そして軍服の男はベリアル。ジータの知る彼はラフな格好をしており、服の色も反対。最低限の露出しかしていない彼の姿はどこか窮屈そうに思えた。
(でも……やっぱり美人だし、格好いい……)
 机越しにルシファーと会話するベリアルを覗き込むと自然と頬が緩む。
 ──ジータが存在する時代にはすでに亡きルシファーが生きている。つまりここは二千年前の世界ということ。
 どういう理屈かは分からないが、誰かの記憶に夢を通して迷い込んでしまったのか、それともジータ自身がなんらかの方法でこの時代に飛ばされてしまったのか。
 おそらく前者の方だろうが、今はどうでもよかった。
(う〜ん……読めない……。古代文字? なのかな。それにここ、ママやルシファーさまがいるってことは研究所?)
 ジータには分からない話をしている二人を置いて部屋に置いてある本棚へと足を向ければ、隙間なく並べられている本たちの背表紙には読めない文字がズラリと並んでいる。
 適当に一冊手に取り、ぱらぱらとページを開くと、見たことのない文字の羅列。
「それで──」
「……どうしたベリアル」
「……いいや。なんでもないよ」
 二人の短いやり取りは、ジータには聞こえていなかった。

(ママ、みんなに慕われてる……。補佐官、補佐官って)
 ベリアルがルシファーの部屋を退出するのに合わせてジータも出れば、彼は様々な天司たちに声をかけ、気にかけている様子を見せた。
 天司たちもそんなベリアルを補佐官と呼び、慕っている。だが、彼の行動の全てはルシファーの計画のためだけにある。
(……アバターの材料にされちゃうのにね)
 ジータの生きる時代では天司長ルシフェルによって封印されているルシファーの遺産であり、破壊衝動の化身。その化け物を造るために大量のコアが必要だった、とジータはベリアルから聞いたことがある。
(それにしてもママ、今より楽しそう)
 ルシファーが生きているからだろうか。彼亡き世界を生きるベリアルよりもどこか楽しげに見えた。
 早く元の時代でもルシファーを復活させなくては。そのためには天司長ルシフェルの体が必要。彼自体に恨みはないが、愛する人のために必要な犠牲。
 一向に覚める気配のない夢にジータはベリアルをそばで見つつ、彼が忙しそうにすると、彼から離れて研究所を見て回ることにした。
 ジータが見たことのない天司や星晶獣、未知の技術。
 知的好奇心を刺激するものばかりについ時間を忘れて見入っていると、徐々に所内の人間が少なくなり、いつの間にかすっかりと暗くもなり、静寂に包まれていた。
(これ夢だよねぇ……?)
 呑気に思いながらこれからどうしようかと考えたときに、浮かんだのは一つ。
 ベリアルのもとへ行くこと。他に行く宛もないのだ。大好きな人のそばにいたい。
 目を閉じて精神を集中しながらベリアルを想えば、遠くから彼の気配を感じた。どこかの部屋にいるのか、動く様子はない。
 外の暗さからして眠っているのか。二千年後の世界では彼は眠らないが、ルシファーが生きているこの時代は睡眠をとっているはず。
 もしかしたら彼の寝顔を見られるかもしれない。逸る気持ちを抑えながらいくつもの通路を抜け、ベリアルの気配を強く感じる部屋にたどり着くと、深い呼吸をして木製の扉に手をかける。
 鍵はかかっていなかった。木の軋む音を聞きながら入室すれば、そこは至ってシンプルな部屋。ワンルームなのか、窓際にベッドが置かれており、ベリアルが横になっていた。
 薄いレースカーテンが引かれているだけの窓からは月の光が入り込み、ベリアルを神秘的な光で照らしている。
 芸術品のような美しさに息をするのを忘れて魅入っていると、ジータは誘われるようにベッドのそばへ。至近距離で見下ろす顔は心臓が痛みを訴えるほどに神々しい。
(ママって結構前髪長いんだ。それに……ママの寝顔、初めて見た)
 見れば見るほど彼を求める気持ちは強くなるばかり。
 どうしても触れたくなって。欲望のままに頬へと手を伸ばせば、瞬間、世界がひっくり返った。
「いっ……!? ったた……」
「まさか触れられるとは……。オレ以外には見えていないようだったし、霊体だと思っていたが……。で、キミは誰?」
「え……? 私が見えるの……?」
「もちろん。どうやらオレにしか見えていないようだが」
 鈍い痛みに目を開ければ、目の前には端正な顔。腕は頭上でひと纏めにされ、ぴくりとも動かない。
 誰にも見えないと思っていて、ベリアルもそれに漏れることはないと思っていたのに。
 まさかの展開にジータは焦る。このベリアルは自分のことを知らないはず。どうすればいいのか。
「あっ……! 待ってママ、アナゲンネーシスはやめて……!」
「ママ?」
 近づく顔の二つの窪みにはまる赤い宝石が鋭く光り始めたことに、ジータは反射的に目をつむった。あの光はベリアルの得意とする魅了の技。ゼロ距離で受けてしまったらどうなるか分からなかった。
「え、えっと……。まず、私の名前はジータ。あなたの敵じゃありません。この魂に誓って」
「たしかにキミからは敵意は全く感じられない。オレやファーさんに向ける目は……むしろ親しみを感じられた。それにキミ、さっきオレのことを“ママ”って呼んだね? キミを産んだ覚えはないが……」
「こんなことを言っても信じられないと思いますけど……」
「それを決めるのはオレだよ」
「分かりました……って、あの、顔が近いので少し離れてもらえると……。心臓に悪い、です」
 まずは彼に危害を加える気がないことを伝え、従順になり、薄く目を開ければ視界いっぱいに広がる秀麗な顔にジータは再び目を閉じる。
 今も昔も顔が良すぎるのだ。ベリアルはジータの意外な主張に真顔になったが、軽く吹き出すとくつくつと笑いながら屈めていた体を起こし、ジータの拘束も解いた。
 抑えつけられていた体が軽くなったものの、ベリアルがジータに馬乗りになっているのは変わらない。だが体重をかけないように膝立ちにはなってはいる。
 腹辺りに感じる熱を思いながら閉ざした瞼を持ち上げれば、ベリアルは上半身裸で下半身は白いボトムを身に着けているのみ。
 月に照らされる極上の体は二千年後と全く変わらない。
「オレに見惚れるのは分かるがキミのことを教えてくれないか。なぜオレのことを“ママ”と呼ぶ? そもそもキミは……星の民じゃないな。だが──ただの空の民とも違う。不思議な感じだ……」
「私は──」
 ぽつりぽつりとジータは二千年前のベリアルに己が何者なのか、なぜここにいるのかを説明する。自分自身でこの状況を再確認するように。
 その間ベリアルは黙って聞くに徹し、時々ジータの言葉にわずかに表情を変えるが、彼女は気づかない。
「……私から話せることはこのくらいです」
「二千年経っても終末は訪れず、ファーさんも首だけになっていると。キミの言葉を全て鵜呑みにはできないが、オレがキミのママをしていることには納得したよ」
 ベリアルはジータを跨ぐのをやめ、隣に座る。それに倣ってジータも起き上がり、ベリアルの横顔を見つめた。
 ──やっぱり未来とは違う表情をしている。
 なぜこの時代に来てしまったのかは不明だが、ベリアルの過去をほんの少しだけ知ることができてジータの心がじんわりと温かくなる。
「キミ、本当にママのことが大好きなんだねぇ。熱視線で勃起してしまいそうだ」
「……未来のママと違って、今のあなたは幸せそうだから」
 いつの日か必ずルシファーを復活させ、彼の前に立ちはだかる敵を屠る剣になろう。終末のためにならば、愛するベリアルのためならば自分の命がなくなってしまっても構わない。
 どんなに彼を愛しても、その愛は返ってこない。ベリアルの愛は全てルシファーのもの。
 それでいい。自分は最後まで彼の忠実な駒として動くのみ。
「未来、すなわちファーさんがいない世界。考えたくもないね」
「大丈夫だよ。私、絶対にルシファーさまを復活させてみせる。そして彼のもたらす終末の中であなたを眠らせる。睡眠が必要ないからってママ、二千年も起きたままなんだよ?」
「……どうして未来のオレのためにそこまでする? 血は繋がってないんだろう?」
ママのそばにいたい。ママの力になりたい。そう思うのはおかしなこと?」
 ジータにとっては当たり前のことなのか、きょとんとしながら首を傾げる。
 ジータにはベリアルしかいない。
 記憶をなくし、なにも分からなくて怖かったとき。大丈夫と声をかけ、抱きしめてくれたあのとき。ああ、この人は自分の親なんだとジータは強く思った。
 血の繋がりなんて関係ない。ベリアルがくれる愛が嘘でも構わない。彼なりに大切に育ててくれたのだ。その恩を返したい。それがたとえ世界を破滅に導くものだとしても。
「あ、れ……? 意識が……」
「おい、大丈夫か?」
「ぅ……あ……」
 急に視界がぐにゃりと歪み、意識が遠くへと引っ張られる。もう少し過去のベリアルと話をしていたいが、どうやら時間が来たようだ。
 抗うことすらできず、ジータの意識は暗闇へと真っ逆さま。底が知れぬ闇に落ちるのを感じながら、ジータは目を閉じた。

「うぅん……」
 体が身じろぎ、ジータの瞼が少しずつ上がっていく。
 重たそうな目の蓋を数回瞬きさせると、彼女の意識ははっきりとしていった。
 暗かったはずの部屋は明るくなっており、外からは小鳥のさえずりが聞こえ、それは朝の訪れを知らせるものだ。
 上体を起こしたジータは鮮明に覚えている白いベリアルの姿を脳裏に浮かべ、顔を綻ばせる。
 なぜ過去の世界にいたのか。その理由は分からずじまいだが、自分の知らないベリアルの姿やルシファー、他の天司のことを知ることができた。それだけでも良しとするべきだ。
 思考を切り替え、体の覚醒を促そうとその場で伸びをし、ベッドから下りると朝の支度のために部屋を出た。
 すると、食欲を刺激する香りと料理の音。慣れ親しんだ音に内側から突き上げる衝動のままリビングへと向かえば、キッチンに立つ長身の男の姿があった。
「ママっ!」
 丸一日ベリアルがいなかっただけで喪失感があったジータはこの世で一番大好きな人物の姿を目にすると、黒いエプロンに包まれた胸へと飛び込んだ。
 勢いがあったにも関わらず、ベリアルの体は揺らがない。大きなボウルの中に入っている色とりどりの野菜をトングを使って和えながら、ベリアルは片手でジータの背を抱いた。
 ベリアルの胸に顔を押し付け、彼の香りを堪能する。
 彼が愛用している香水とその中に交じるベリアルの香りはジータにとって馥郁ふくいくたるもの。この世で一番大好きな薫り。
 愛する人に全身を包まれているように思えて体が輪郭から溶けてしまいそうだ。
「オハヨウ。ジータ。いい夢を見れたかい?」
 頭を撫でられたことに頬を緩ませながら顔を上げれば、レッドスピネルとジータのアンバーが重なる。
 暗い血の色をした目は人によって恐れの感情を抱くが、ジータにとってはキラキラとした宝石を見ているかのように惹き付けられるものだ。
「うん。すっごくいい夢見たよ。でも、どうして? 帰ってくる予定までまだ……」
「用事が思ったより早く済んでね。あと少しで朝食ができるから顔を洗って着替えておいで」
「うん!」
 額に口付けが落とされ、ジータはふにゃりと笑うと語尾に音符が付きそうなくらいに声を上ずらせ、身支度のために来た道を戻っていく。
 変わらない、穏やかな日常。いつの日かルシファーを復活させ、この平穏が終わると思うと少しばかり寂しさを感じるのはジータだけの秘め事。
 ルンルンな気分で素早く支度を終えたジータがリビングに戻ると、テーブルに二人分の食事の配膳が終わったところだった。
 一般的な家庭に比べ、お洒落なブレックファースト。
 星晶獣であるベリアルに食事は必要ないが、昔ルシファーのためにと色々作っていたのが特異点──ジータの子育てに大いに役立っていた。
 ベリアルの作る食事はどれも一流シェフが作ったもののように美味しく、ジータが……するつもりはないが、親離れできない原因の一つでもある。
「さあ、冷めないうちに食べよう」
「美味しそう〜! いただきまーす!」
 互いに向き合っての朝食。幼い頃のジータに「ママといっしょにごはんたべたい」と言われてからは彼なりに思うところがあったのか、こうして一緒に食事をするようになったのだ。
「う〜ん! やっぱりママの作ったご飯が一番好き!」
「アリガトウ。そう言ってもらえると嬉しいよ」
「……ママがいなくて寂しかったせいかな? ママの夢を見たの。しかも私が知るはずのない研究所時代の……」
 普段は夢を見ても内容を覚えていないか、覚えていても朧げなのだが、今回は違った。
 夢の中で体験したことを全て覚えている。過去のベリアルに触れられた感触も、なにもかも。
 食事の手を止め、ぽつりぽつりと話す我が子を見てベリアルは珈琲を一口飲むと小さく笑った。口角を緩やかに上げたその笑みは悪辣さがなく、柔らかいものだ。
「驚いたよ。まさかオレの記憶の中に迷い込むなんて。これも特異点だからかねぇ」
「?」
「キミは夢を通してオレの記憶を体験していたんだ。……どうだった? 昔のオレは」
 思ってもいなかった発言にジータの顔に朱が差す。その熱は瞬時に体全体に広がり、ベリアルの目から逃げるように俯く。
 過去のベリアルはジータのことを知らず、少しだけ緊張したが、敵ではないことを伝えればすぐに解放された。本当はもっと会話を──というより、過去のベリアルのことを知りたかったのだが、それは叶わず。
「え、えっと、昔のママはその……王子様みたいでカッコよかったし、綺麗だったし、あとは、ええと……」
 過ぎ去ったいつの日かに寝物語として聞かせてくれた子供向けの童話に出てきてもおかしくない姿を思い出し、ジータの顔にさらに熱が集まる。
「昔のオレの方が好み?」
 俯き加減にベリアルを見れば、彼は頬杖をつき、楽しげな雰囲気を纏いながらジータを見つめていた。
 どちらのベリアルもジータにとっては最愛の“ママ”に変わりないが、見慣れたこの黒い姿の方が好きかもしれないと彼女は密かに考える。
 それに今の方が彼らしい。そう、思った。
「……どっちのママも好きだよ。ねえママ。ママの昔のこと、もっとたくさん教えてほしいんだけど……駄目かな? あなたのこと、いっぱい知りたいの」
 愛する人の色んなことを知りたい。至極真っ当な言葉にベリアルはおもむろに片手を伸ばすと、ジータの金色の髪に触れた。
 二千年経った今でも追い続ける造物主と対を成す色の触り心地を確かめるように撫でれば、ジータは嬉しそうにはにかむ。
 小動物のように愛らしい、だが犬などのペットに抱くものとも違う不思議な感情がベリアルの内側から溢れるが、彼は目を閉じるとそっと、その箱を閉じた。
 堕天司であり、星晶獣である己には不相応な感情だと。
「……フフ。そうだな。今日はオレの昔話をしてあげよう」
「本当!? すごく嬉しい! ありがとう、ママ!」
 ベリアルの答えに今日はとてもいい日になりそうだとジータは期待を膨らませ、食事を再開する。
 ベリアルがルシファーに既知の言葉では捉えることができない感情を向けているのと同じように、ジータもまた、愛などという陳腐な言葉では表現しきれない想いをベリアルへと向けている。
 いつの日か訪れる終末。なにもかもが無に帰すその瞬間までこの人のそばにいたい。その願いを胸に、今日も静かに二人の時は過ぎていく。