夢と現の境界線

 どこか懐かしい香りが鼻をくすぐる。小鳥のさえずりが遠くで聞こえ、海の底にあった意識がゆっくりと水面に向かって浮上するように覚醒へと向かう。
 重たいまぶたを薄く開ければ光が差し込む。ぼやけた視界は開眼するにつれて鮮明となり、白いベッドが目に入る。
 目の前には壁。傍らには窓。そして反対側には。
「ジータ……?」
「え…………?」
 パンデモニウムで激しい戦いを繰り広げ、自死したかと思われたが最後の最後で主の救援に現れた狡知の堕天司。その男が椅子に座ってこちらを見下ろしていた。
 彼は黒い服装をしていたが、目の前の彼はまるでそこら辺にいるヒューマンと変わらぬ服を身にまとっていた。それでも創造主の手ずから造り上げられた美貌は変わらず。
 老若男女を魅了するレッドスピネルは零れ落ちてしまいそうなくらいに見開かれ、形のいい唇は小さく開いたまま。彼だけ時間が停止してしまったかのように数秒固まっていると、ようやく時が動き出したのか血相を変えて部屋から出て行ってしまった。
 慌ただしい雰囲気に並々ならぬものを感じ取りつつ、ジータは仰向けの状態で周囲を見渡す。家具の配置はグランサイファーの自室とは違う。窓から見える景色は自然が広がり、それは見慣れた故郷の風景。
 ──ここはザンクティンゼルの自分の部屋だ。そう理解したジータは戸惑う。今は帰郷はしておらず、空の旅の真っ最中。
 いいや。違う。そんなことよりも。
(どうしてベリアルが……!?)
 彼は堕天司の王ルシファーとともに次元の狭間に消えたはず。それなのになぜここに?
 どうして自分が故郷にいるのか。なぜベリアルがそばにいたのか。謎は深まるばかり。そんなとき、混乱状態に陥るジータをさらに混迷の渦に叩き落とす人物が現れる。
「早く来てくれファーさん! ジータが、ジータが……
!」
「…………」
 開いたままになっている扉の向こうへと彼が叫べば、ひとつの足音が近づいてくる。ジータはベリアルが口にした名前にまさか、と信じられないでいたが、その感情はすぐに裏切られることになった。
 木製の床が軋む音を伴いながら現れたのは──ベリアルと同じくどこにでもいる一般男性のような装いの白銀の麗人。
 窓から差し込む太陽の光に銀髪が反射し、きらきらと輝く。どこまでも凍てつく冬を閉じ込めたふたつの瞳はベッドで驚愕の面様のまま停止しているジータを映す。
 こんなことあり得ない。夢だ。これは夢だ。ふたりは敵。世界に終末を齎そうとした悪なのだ。
「私に……私になにをしたの!?」
 妙に重くてぎこちない体を無理やり起こし、ふたりを睨む。大きな声を張り上げたつもりではあるが、実際はあまり声量は出ていない。まるでずっと喋っていなかったような。
 彼らからすれば自分は終末計画を邪魔した特異点。復讐のためになんらかの術をかけたのだと、ジータは推測する。次元の狭間に消えたとはいっても油断はできない。異空間からの干渉もできるかもしれないと思わせるほどの力が──特にルシファーにはあった。
 敵意しかない鋭い視線と、怒声を浴びせられたベリアルは困惑するように赤い目を瞠目させ、後方にいるルシファーの方へと首を向ける。
 明らかな動揺の瞳を受けてルシファーはジータの方へ歩みながらも、極めて冷静な口調で彼女の身になにが起こったのかを淡々と説明し始めた。
 時は遡ること一年ほど前。森にひとりでいつもの散歩に行ったジータは突如として現れた魔物に襲われ、追い払うことはできたが頭部に大きなダメージを負い、今の今まで意識不明だったという。
 長いあいだ眠っていたならば体の違和感も納得がいく。でも、だからといって信じられるわけがない。ルシファーはベリアルと違って息を吐くように嘘を言ったりはしない人物だとは思うが、それでも鵜呑みにはできない。
「そんなこと信じられるわけがない! ルリア……ビィ、みんなはどこ!?」
 ちょうどルシファーが椅子に座るベリアルの横に立ったところでの叫びを受け、ふたりは顔を見合わせる。数秒の沈黙。
 ルシファーはベリアルに医者を呼んでこいと言われ、部屋をあとにし、少ししてやってきたヒューマンはジータもよく知っている医者の男性だ。子どもの頃、体調を崩したときによくお世話になっていたのを思い出す。
 彼もジータも目覚めに喜びつつも、医者としての仕事を全うした果てに出した診断は長期に渡る昏睡状態で記憶が混濁。夢と現実の境界線が曖昧になっているのかもしれません。というもの。
「うそ……。そんなの違う……! 私が旅した世界が夢なわけない!」
 心を開いている村人にもこちらの世界が現実。ジータの世界は夢だったと暗に告げられ、感情はさらに石化を進める。
 あの世界が夢なわけがない。ビィやルリア、大切な仲間たちとの旅は苦難の連続ではあったが、あちらの方が夢だなんて言われても到底受け入れられるものではなかった。
「……先生。ありがとうございました。あとはオレたちで話し合います」
 あの狡猾なベリアルとは思えないほどの弱った笑みに見送られ、医者の村人は去っていった。
 再び三人に戻るもジータの主張は変わることはない。どちらが夢の世界かと聞かれたら“こちら”の世界なのだから。
 早く目覚めなければ。しかしどうやって? 術にかかっているならばそう簡単にはいかないだろう。険しい顔のままベリアルたちを視界に入れつつ、考えるが平行線を辿るばかり。
「……はぁ。まずは情報共有をするのが得策か。ベリアル」
「ぁ……あぁ、分かってるよファーさん。落ち着いて聞いてほしい。ジータ。まずキミは──オレたちの娘だ」
「ッ……!? そ、そんなわけないでしょ!? 私の父さんと母さんはお前たちじゃない!」
 ルシファーに促され、ラインを探るように慎重に言葉を紡ぐベリアルの言葉にジータは即座に否定する。
 よりにもよってなんて内容だ。偽りだとしても親を名乗る行為に全身が熱を持ち、反射的に出た声は先ほどよりかも大きく。ジータの気持ちを推し量るには十分すぎるくらいだ。
 けれどジータから拒絶されたベリアルは分かりやすく傷ついた顔を浮かべ、無表情がデフォルトのルシファーでさえも一瞬だけわずかに眉がひそめられた。
(なに、この反応……。なんでそんな顔をするの……?)
「……俺とベリアルは元は騎空艇に乗って旅をしていた。その途中で赤子のお前を拾った。それまでが長い旅だったゆえに長期休暇としてこのザンクティンゼルの地を選んだ」
 ベリアルの代わりに平坦に告げるのはルシファーだ。話の内容はジータからすれば突拍子もないもの。はいそうですかと信じられるわけがない。
「初めての子育ては大変だったけど、すくすくと成長するジータを見て父さんと母さん──オレとファーさんは本当に嬉しかったんだ。だが……魔物に襲われて……」
 懐かしむように細められる目は柔和でジータの知る悪辣さは微塵もない。
 魔物に我が子が襲われたときのことを思い出してベリアルはそのまま目を閉じると黙ってしまう。俯く様子はジータの心を惑わし、悪いことをしたときのように胸がきゅっと締め付けられた。
 口を閉ざしてしまったベリアルからルシファーへと視線を向ければ、腕を組んで立つ彼はただ静かに青星にジータを映していた。次はお前が話す番だと。
 ジータもふたりの反応を探るようにゆっくりと今までの旅路や自分と両名の関係を語る。天司と堕天司の戦い。終末を阻止し、ふたりは次元の狭間に消えたこと。
 己の記憶を想起しながらの会話はきっとルシファーたちからすればとんでもないもののはず。現にひと通り話し終えるとふたりは互いの顔を見合わせた。
「…………父さんと母さんが敵としてジータの前に現れ、しかも傷つけたことはマァ、ショックではあるが……。こうして目覚めてくれてオレは嬉しいよ」
「…………」
 自分の知るベリアルとは真逆の慈愛に溢れた笑みにジータは戸惑いを隠せない。彼は自分のことを父親と言ったが、心からの言葉を発する顔は雫が滲む目尻が下がり、慈母の如き優しさだ。
 が、それとこれとは話が別なことには変わりない。互いの情報を開示したからといって親を名乗る男ふたりが正しいとは限らない。信用に値しないのだ。特にベリアルは。
「なにをしている」
「っ……、外に、行くの……! わ……っ……!?」
 いつまでもベッドの上というわけにはいかない。ジータはまるで石のように重たい脚を動かしてベッドから下りようとし、ルシファーが咎めるが言うことを聞く彼女ではない。
 無視して立ち上がろうとするが、思ったとおりに動かずそのまま倒れる──という寸前でルシファーが抱きとめた。
 頬に当たる彼の体。ルシフェルのボディのたくましさを服越しとはいえ顔に感じる。まさか彼が動くとは思わず、ジータは数秒固まってしまう。もし動くとしたらそれはベリアルだろうから。
 ジータが知るルシファーは冷静で、冷酷で、怖い。強大な力を有し、エテメンアンキで倒せたのも仲間たちのおかげ。
 そんな彼にジータは身を預けるしかなかった。下半身に力が入らず、自分ではどうにもできない。長期間眠ったままだという話も理解できてしまうくらいには。