開け放たれた窓からは小鳥のさえずりが聞こえ、部屋の中にはベーコンと目玉焼きを焼く香ばしい匂いや食欲を刺激するジューシーな音が広がっている。
普段は外食ばかりのジータとベリアルだが今回泊まった宿にはミニキッチンが備え付けられており、たまには自分で作ろうと思ったジータがキッチンに立っていた。
異世界に飛ばされる前は仲間であるローアインたちが作ってくれていたためあまり料理をしていなかったが、ザンクティンゼルに住んでいた頃はジータは自分で食事を作っていた。そのときの記憶を頼りに手を動かしていると背後の扉が開く音。
「へぇ……珍しいな。キミが料理なんて」
振り返って見ればベリアルは寝室から出てきたところだった。眠そうにあくびをしつつ、意外そうに声をかけてくる。そんな彼女は下はボトムを穿いているが上はシャツを羽織っただけで前が丸見え状態。
加えて髪も乱れている。眠ることのなかった元の世界では決して見ることのなかったベリアルの一面にジータはどこか愛おしさを感じ、しょうがないなと微笑むとシャワーを勧めた。浴び終わる頃には料理ができているからと。
「ベリアルも食べるでしょ? パンも朝市で買った焼き立てだから美味しいよ」
星晶獣であるベリアルにとって食事は活動するために必須の行為ではない。それでもジータが聞けば彼女は掠れた声で「あぁ」と短く返事をし、浴室がある扉の向こう側へと消えていく。
それを見送ったジータは朝食作りへと戻る。ときに鼻歌を交え、楽しそうに料理をする彼女はとても穏やかだった。
なににも縛られない、とても自由なひとときは元の世界では過ぎ去りし時の中に置いてきてしまったのだから。
***
「髪を下ろしているベリアル、初めて見たかも……」
出来上がった料理を木製のテーブルに配膳しているとシャワーを浴び終わったベリアルが戻ってきた。服は普段どおりなのだが、髪だけはセットしていないのか下ろされたまま。
ベリアルとの異世界生活はそこそこになるが、いつもはジータが目覚めるとすでに彼女は見慣れた姿で起きていてこちらの寝顔を見つめている……ということが多かった。
今日は珍しくジータの方が早起きし、ベリアルの寝顔や乱れた姿、髪を下ろした姿を見ることができた。
どの場面のベリアルも美しく人間ではあり得ない美に、あぁ、この人は天才ルシファーに造られた存在なんだなと何度思ったか。
「意外と前髪長いんだね?」
「フフッ。惚れ直した?」
「別にあなたに惚れてなんか……」
テーブルにつき、ニヤニヤしながら聞いてくるベリアルにジータは反射的に言葉を返すが、明確な否定は出なかった。脳内では“惚れてなんかない”という言葉が再生されるのに、その言葉は喉に引っかかって出てこない。
「それより! ご飯にしましょ。珈琲もあるよ」
「いい香りだ。サンディに教わったのかい?」
「うん。さすがにサンダルフォンと同じようにはいかないけどね」
あはは、と笑いながら思うのは茶髪のくせ毛にベリアルに似た赤い目をした天司長。今頃彼女を始めとする仲間たちはなにをしているのだろうか。遠い世界に思いを馳せながら配膳を終えたジータはベリアルの正面に座った。
手を合わせて「いただきます」と言えばベリアルもそれに倣って手を合わせ、食事の始まり。食べやすいようにスライスしたバゲットにイチゴジャムを塗り、ぱくりと一口。芳醇な甘さが口いっぱいに広がり、ジータの頬は自然とほころぶ。
ベリアルはというと半熟の目玉焼きにナイフを入れているところだった。それだけでも様になっているのだからジータの視線はベリアルへと向いてしまう。
「ほらご覧よ。中身を包む膜を破ったら流れ出る黄身。まるで破」
「朝からエッチなこと言わないの!」
黙っていればいい女なのに……と思わずにはいられない。ジータにぴしゃりと怒られたベリアルは意に介さず、フォークで目玉焼きを口へと運ぶ。……ジータに流し目を向けながら。
「処女じゃあるまいにカタイこと言うなよ。私の指一つで善がって媚びを売るキミが」
悪辣な笑みを浮かべてジータを煽るベリアルだが、ジータはどこ吹く風。食事の手を一旦止め、紙ナプキンで口元を拭く。
「そうね。私の生殺与奪の権利はあなたが握っている。だからあなたの機嫌を損ねないように……とは思ってるよ。だって死にたくないもの」
湯気が立ち上る珈琲を飲み込めば独特の苦味が口に広がる。昔はそのままだと苦くて飲めなかったなぁ、と若干感傷に浸りながらジータはカップをテーブルに戻した。
顎の下で指を組み、口元を緩やかにカーブさせてベリアルを見つめるジータからは怒りの感情は一切感じない。
「また生きてルリアやビィ、騎空団のみんなに会いたい。そのためならプライドなんてもの捨てるよ。……まあ、仮にリンクのことがなくてもギスギスした関係は嫌だから……今とあまり変わらないかもね」
「言うようになったじゃないか。ワタシがいない間に心身ともに成長したってワケね」
「そういうコト」
最後は小さく笑い、ジータは食事を再開させた。ベリアルもジータの様子に牙を抜かれたのか話題は今日の予定や滞在中に行きたい店、今後どこの島へ向かうかなど明るい内容へと変わっていく。
ジータたちがいるべき世界では絶対に出来ない平穏な会話。元の世界に帰ったときを考えればベリアルに深入りするのは好ましくないが、それでも──彼女との平和な日常はジータの心を躍らせるのだ。
***
「──……ゆめ?」
ぱち。と、ジータが目を覚ますと見慣れた天井が視界いっぱいに広がる。けれどここは団長としてのジータの部屋ではない。異世界の特異点であるグランが団長を務める騎空団に身を置く一人の団員としての部屋。
窓から入り込む日差しに目を細めながらジータは上体を起こし、軽く伸びをすると「おはよう」と隣に眠る人物へと小さく零す。
ジータの隣で眠っているのはベリアルだ。元の世界では二千年ものあいだ眠ることをしなかった彼女。それが異世界に来たことで気配を消す必要もなくなったため、眠るようになったのだ。
最初はジータと同じように寝て起きていたのだが段々と眠る時間が増えていき、ついに目覚めなくなってしまった。
ベリアルによって生命のリンクを繋いでもらっているジータは彼女と離れることができない。かといって旅をやめるわけにもいかない。
なのでシェロカルテにベリアルを入れて運べる棺型の入れ物を用意してもらい、最初は乗り気ではなかったグランたちとの合流も果たした。
「お寝坊さん。……でも今は眠りたいだけ寝て。大丈夫。あなたは私が守るよ。たとえ生命のリンクがなくたって……」
すやすやと胸を上下させ、安らかな表情をしているベリアルはおとぎ話の眠り姫そのもの。
無防備な白い頬を撫で、微笑みかけるジータの顔はどこか力がない。きっとこの世界のルリアが見ても心配するであろう表情。
ベリアルはジータのことを知る唯一の人物。たとえ生命のリンクというものがなくても知っている相手なのだ。ルシファーと共に終末を齎そうとした存在であっても放置なんて言葉はジータの中にはない。
物思いに耽っていると外の廊下から団員たちの足音が聞こえるようになった。そろそろ自分も動かねば、とジータはベリアルを抱き上げると蓋が開いたまま床に置かれている棺に彼女を寝かせた。
「今日という一日がまた始まる。でも、少しだけ寂しいのは──なんでかな。ベリアル」
呟くとジータは静かに蓋を閉める。
いつも彼女の問いに答えてくれていた声は、ない。
終