「仕事は終わったかい? 特異点」
「ベリアル……? ちょうど終わったところだけどどうしたの?」
「キミがヒドラ討伐に行ったって噂で聞いてね。一人じゃ荷が重い……と思ったが、さすがだな」
元の世界に帰るため、情報を求めてやってきたのは古い本が多くあるといわれている島だった。しばらくの拠点となる宿を決めた後は情報集めはベリアルに任せ、ジータは島に唯一ある町の住民たちが突如現れたヒドラに強い不安を抱いているということで、本たちがある書庫への出入りを交換条件に討伐を引き受けたのだ。
空の旅へのきっかけになった魔物。当時は手も足も出ず、命を奪われる結果になってしまったが、現在の彼女は天司をも超越し、極みの境地に至る。一般人にとって脅威そのものであるヒドラの討伐もつつがなく終わらせ、一息ついたところで背後から聞こえたのは羽ばたき音。
振り返ればベリアルが優雅な身のこなしで地面に足をつき、ジータの向こう側に倒れる巨大な魔物を見て軽く笑っていた。
「あなたが次元の狭間にいる間に私、すごく強くなったんだから。今度手合わせでもしてみる?」
「そうだなァ……。ん?」
「え、雨!? うそ、今まで晴れてたのに! ええと……あっ、あそこ!」
ジータも花の笑みを返し、言葉を交えていると頬にぽつりと当たる雨粒。それはすぐに大粒の雨へと変化し、二人を濡らしていく。
ベリアルは落ち着いているが、ジータは慌て、雨宿りできそうな場所を求めてぐるりと周りを見渡し、ひときわ大きな木を見つけるとベリアルの手を取って走り出す。
ジータに連れられて走る間、ベリアルはしっかりと繋がれた手と手から目を離せなかった。強く握られた手の感触は、元の世界では感じることはできないだろう。
そんな彼女がようやく視線を手から濡れた青に移せたのは、自然の傘の下だった。
「うぅ、濡れちゃった……。ええとタオル、タオル……」
ザアザアとした雨の音をBGMにジータは腰に着けているポーチを探ると、真っ白なミニタオルを取り出した。それで自分を拭くのかと思いきや、タオルを持った手は自ずとベリアルの顔へと伸ばされる。
「水も滴るイイ女だけど、ちゃんと拭かないとね」
雫が滴る髪の毛、顔のラインに沿って落ちる水滴。平時から妖艶な雰囲気を纏っているベリアルだが、今の彼女はそれ以上に艶やかだった。
ずっと見ていると変な気分になってしまいそうな……。
ベリアルの顔の水を吸ってタオルが少し湿る頃。なにをしているんだと真顔だったベリアルは呆れ気味にため息をつくと、ジータの手首を掴んでタオルの動きを止めた。
「ベリアル?」
「ワタシは星晶獣だ。ずぶ濡れで放置されても風邪なんて引かない。だがキミは人間だ」
「あっ……」
「お人好しなのもいいが、自分が脆い人間だと理解しろよ」
目を細め、ジータを窘めると彼女からタオルを奪い、濡れた部分を拭いていく。
口ではああ言ってもジータの肌を撫でるその手は優しい。こんな一面もあるのかとベリアルの顔をまじまじと見ていると、怪訝そうな目と視線が重なる。
「思えば……私はあなたのことをなにも知らない。……だから知りたい。あなたのこと」
「キミがワタシのことを理解できる日がくるとは思えないけどね」
ベリアルとは敵対しており、ヒトの心を弄ぶ最低な女だと思っていた。だがこうして違う世界に来て、彼女に生命のリンクを繋いでもらってからは敵同士だったのが信じられないくらいに穏やかな日々を送っている。
これがベリアルの作戦ならば、さすが狡知だと拍手したい気分だ。なぜならジータにはもう彼女を殺すという気持ちが沸かないのだ。
サンダルフォンの大切な人を奪い、その肉体を使って最愛の人を復活させ、その人物と終末を迎えるために行動した相手。一度は死闘を繰り広げ、こちらも殺す勢いで戦った。だがもう殺せない。終末阻止のために止めることはできても、彼女のコアを貫くことはできない。
これ以上ベリアルを知ってしまったら刃すらも交わせなくなるかもしれない。だが、それでも彼女のことが知りたかった。彼女の言うように理解はできないかもしれない。それでも、ベリアルのことをもっと知りたい。
「理解はできなくても、あなたを知ることはできる。きっと……この世界にいる間だけだと思うから。その機会があるのは」
元の世界ではジータは団長に戻らなければならない。ルシファーが終末を望む限り、それを防ぐために戦い続けるだろう。だから今しかないのだ。
「自分で自分の首を絞めることになるって分からないのかねぇ……」
一通り拭き終わると、タオルをジータに渡してベリアルは大木へと寄りかかり、前を向く。その目は遠くを見ているが、なにも映してはいない。
ベリアルの返答に拒否はされていないと判断したジータは喜悦に満ちた小さな笑い声を漏らすと、ベリアルと同じように正面を向く。
通り雨だとは思うが、未だにやむ気配のない雨。自然界の音に癒やしを得ながら目を閉じて考える。なにを聞こうか。相手が人間ならば好きな食べ物は? などお決まりな質問があるが、ベリアルは星晶獣。食事をすることはできても、生きるために必須な行為ではない。
「う〜ん……好きなものとか、ある?」
「ワタシの好み? 偏り具合がヤバイもの」
「つまりルシファーってことね」
「なんだ特異点、嫉妬してるのか? まあキミも大概偏ってて好ましいとは思ってるよ」
どうしてこうも曲解するのか。だがベリアルとの共同生活がだいぶ長くなり、慣れたのでジータは華麗にスルーし、今度は反対の意味の質問をぶつけてみた。
「じゃあ苦手なものは?」
「……完璧、公明正大、無私無欲」
「そう……」
やっぱりね。とジータは心の中で付け加えた。ルシフェルの話題になると棘が増すのですぐに分かる。それを再認識した。
それにしてもこんなに嫌っているなんて。その理由を聞いてみたい気もするが、わざわざ地雷を踏み抜いて命を落とすようなことは回避したい。なので彼女の前ではルシフェルの話はしないようにしようと決め、話をそこそこに次の質問へと移った。
「趣味とかあったりする?」
「趣味ねえ……。とりあえず島に立ち寄ったら雑貨屋は見る。以前訪れた島も何十年、何百年ぶりに行くと新しい店が必ずあるからな。あとは……買い物と岩盤浴」
「…………」
意外過ぎる答えにジータは反応することができなかった。ぱちぱちと瞬きを繰り返して絶句する彼女に、ベリアルはわざとらしく顔を覗き込んでくる。
「うん? どうした特異点。急に黙り込んで」
「え、いや……。あなたのことだからお得意の嘘かもしれないけど、なんか……普通の女の人の趣味だなぁ。って」
「いったいキミはなにを想像してたんだい? ほら、言ってごらん」
急に顔を近づけてきて、ニヤニヤとした顔で舌なめずりをする彼女の舌の動きをつい、目で追ってしまう。距離も近くなり、彼女から香る香水を変に意識してしまい、心臓の鼓動を速める。
今まではこんなふうに感じたことはなかったのに。
「べっ、別になんでもいいでしょ……」
「ふぅん? まあいい。じゃあキミの趣味は? ワタシばかり聞かれるのはアンフェア。そうだろう?」
顔を離し、元の位置へと戻っていったベリアルに少しずつ心臓が落ち着きを取り戻す。これでは恋する女の子のようだとジータは戸惑ってしまう。
ベリアルに対して恋心なんて抱くはずがないのに、これは一体なんなのか。生命のリンクという深いところまで繋がっている影響なのか。
いいや、ただ単に顔がいいからドキドキしてしまっただけだとジータは感情に蓋をするも、一つだけ認めなければならないことがあった。
ベリアルを拒絶するように存在していた分厚い壁は少しずつ、けれど確実に崩れていっている。このままだと……。最後に待ち受ける結末からジータは目を背け、気を取り直して彼女からの質問に答えることに。
「冒険とおしゃべり、かな。今だってあなたと二人きりでプライベートな話をして……なんか内緒話みたいでワクワクしてるもの」
「こうして聞くと……どこにでもいる“女の子”なんだな。キミは」
「そうだよ。“特異点”と特別視されてるけど、私自身はそうだとは思ってないし。冒険とおしゃべりが大好きな普通の女の子なんですー」
「普通の女の子、ねぇ……。どうやら雨もやんだみたいだし、帰るか。キミの冷えたカラダ、ベッドの中でじっくりと温めてやるよ……」
「ひゃぁぁっ!? 耳に息吹きかけないでよっ! もう……! 町長さんに報告しに行くよっ、ベリアル!」
雨の中で秘密の会話をしているといつの間にか雨がやみ、雲間から光が差していた。
ベリアルの調子に趣味は姦淫の間違いじゃないのかと内心ツッコミを入れると、ジータは恥ずかしさを誤魔化すようにスタスタと歩いて行ってしまう。
離れていく蒼い女性の後ろ姿を見てふっ、と表情を和らげたベリアルも彼女のあとを追いかけるように歩き出す。
堕天司と特異点。かつては敵同士だったが、今は違う。
二人の遥か頭上では、彼女たちの不思議な関係を見守るように空と空を繋ぐ七色の橋が輝いていた。
終