昔日の愛、魂の救済。

 突如として異世界に迷い込んでしまったジータとベリアル。彼女たちは本来であれば敵対する関係なのだが、この世界に限っては協力関係にあった。特に──ジータの知るルリア無きこの世界ではベリアルがルリアの代わりに生命のリンクを繋ぎ、ジータは生きながらえていた。
 元の世界の写し鏡のようなこの世界で二人は自分たちの世界に帰る方法を見つけるため、島を転々と渡り歩いていた。
 そこでジータは騎空士として人々の依頼をこなし、路銀を稼ぎつつ、ベリアルは情報を得るために動く。それが個々の役割となっていた。
 今回の島には村が点々と存在し、島の中心にある唯一の町はかなり大きく繁栄しており、人々の往来が目立つ。人の波を掻い潜り、この町での拠点となる宿を決めた二人はそれぞれの仕事をするために表に出ると、すぐに一人の老婆に声をかけられた。
「もし。あなた様方は騎空士では……?」
「は、はい。そうですけど……」
 品の良さそうな老婆にジータは返事をする。いきなりのことで驚きつつも、なにか困っているのかもしれないと直感したジータは話を聞く姿勢を示す。
「あなた様たちはとても強い方だとお見受けいたします。その強さを見込んだ上で、依頼したいことがあります」
 そう切り出すと老婆は悲しげな表情で一瞬だけ逡巡すると、森の方を指差した。
「森を抜けた先の丘に小さなお城が見えるでしょう?」
 老婆が指差す方角を見れば、確かに丘の上に城が見えた。だが人の手が入っていないのか朽ちる一方という見た目で、城自体に歴史的価値はありそうだが人が住むには向かない。
「あそこは今は亡き貴族が住んでいた城。私がメイドとして働いていた場所です。しかし……今では賊たちが根城とし、巣食っているのです。……お願いです。どうか賊たちを追い払ってはくれませんか」
 悲痛の面持ちの老婆にジータの答えはもう決まっていた。大切な思い出の詰まった場所。そこを汚される苦しみは共感できるものがある。が、快諾の返事をする前にずっと黙ったままだったベリアルが口を挟んだ。
「ご婦人。きっとこの子はあなたの依頼を受け、迅速に解決するでしょう。ですが我々も仕事として騎空士をしている身。先に報酬の話をさせていただいても?」
「ちょっと、ベリアル……!」
 確かに仕事として依頼を受けている身なので先にそういった話をするのも理解できる。だがこの依頼に関しては仮に報酬が出なくてもいいとジータは考えていた。とても困っているのだ。無報酬だからといって断るようなことはしたくない。
 また、シェロカルテを仲介していない──個人で受けた依頼の中には事情があり、無報酬で働くことだってあるのだ。
「そうですね。大変な仕事をお願いするのですから、報酬は大事なお話です。今の私に用意できるのはこれくらいしかありませんが……」
 そう言って老婆は自らの左手の薬指に輝くダイヤモンドの指輪を外し、ジータの手に握らせた。
「そんな……! こんな大事な物受け取れません!」
 左手の薬指の指輪。それがどんな意味の物なのかはさすがに知っている。老婆の大切な人からの贈り物。それを受け取ることなどできない。
 しかし老婆は返そうとするジータの手を逆に指輪を握らせる形にすると、目を閉じ静かに首を横に振った。
「いいんです。私にはもう必要のない物ですから。大丈夫。大切な思い出は私の心、魂に宿っています」
 慈愛に満ちた優しい微笑みと眼差しに、これ以上言うのは野暮なことだと知り、ジータは頷いた。
「分かりました。依頼を成功させた暁にはこの指輪を報酬として頂きます」
「いえ、先にお持ちください」
「でっ、でも……!」
「大丈夫。あなたのその誠実さや優しさを感じ取ったからこそ私は……あなたに声をかけたのです。ああ、この方ならば願いを叶えてくれると」
 なんて不思議な雰囲気を纏う女性なのだろうか。どこか胸の奥がそわそわするのを感じつつも、ジータは素直に折れた。老婆が言うように裏切るつもりなど毛頭ないし、頭の中ではどのように準備をしてから城へと向かうかの計画が組み立てられ始めている。
「あの、よろしければあなたの名前を教えていただけませんか? 私はジータ、こっちはベリアルです」
「私の名前はエリー。ジータさん、ベリアルさん。よろしくお願いしますね」
「諸々の準備が終わったらすぐに出発しようと思います。じゃあベリアル、あなたはいつも通り情報収集をお願い」
「いや。今回はワタシも一緒に行くよ。それにこうした方が早いだろ?」
「うわっ!? ちょっと! こんなところで羽を出したら町の人たちに……って、あれ?」
 珍しく同行することを告げたベリアルはその巨大な漆黒の翼を優雅に広げる。ルシファーによって与えられた六枚の狡知の翼は天司というよりかは悪魔のものだが、奸悪な女にはよく似合っている羽だ。
 まさかの行動にジータは慌てふためき、周囲に視線を向けるも、不思議と誰も驚いたりしていない。そもそもベリアルの姿自体が見えていないかのような様子だ。
「フフ……。認識阻害の魔法をかけてあるのさ。つまり、ワタシやキミの姿は他の人間には見えないってワケだ」
「あなたって本当に色んな魔法が使えるのね」
「そうそう……この魔法をかけている間はキミがどんなにイヤらしい姿になっても誰にも見えないんだ。今度、町中での野外プレイでもどう?」
「こっ、こら! エリーさんの前でなにを言って……エリーさん?」
 相変わらずの調子のベリアルの発言に羞恥心で頬を染めつつ、老婆の名前を呼ぶもその姿はどこにもない。今の今まで一緒にいたというのに。
「まあまあ。あのご婦人とはすぐに会えるさ。さて、城まで飛ばすぜ? しっかり掴まってな」
「でっ、でも準備──うぁぁぁっ!?」
「キミが人間相手に準備なんか必要ないだろ」
 ベリアルに素早く抱き上げられ、ジータは声を上げるも、その内容に逆に笑われてしまう。ジータはすでに人間を卒業し、天司をも超越する力を秘めているのだ。並の星晶獣すらまともな相手にならないというのに、今更ただの人間相手になにを準備する必要があるのか。
 踏み込み、脚をバネのようにしてベリアルが大きく飛び立つと、地上には鋭い風が吹き抜ける。彼女の姿を認識できない者たちにすれば突然の強風でしかない。
 徒歩で向かえばだいぶ時間のかかる距離に城は建っているが、空からの来訪、しかもルシフェルと同等──アバターの力を取り込んだ今ではそれ以上になるかもしれない、神をも堕とす力を有するベリアルの羽では数秒で目的地の上空まで来ることができた。
「近くで見ると結構大きいかも……」
 さすがに王族の住まう城と比べると小さいが、貴族が住んでいたとなると納得の大きさ。だが遠くから見ても分かったように人の手は入っておらず、どこか寂しさを感じる外見だ。城の中心には中庭だろうか。開けた場所があり、中心にはなにかの残骸がある。おそらく人が住んでいた頃には美しい花が咲き乱れていたのだろうが、今ではその名残しか感じられない。死の空間が広がっていた。
「外には見張りが数人……。中にどのくらいいるかだが……まあ、ただの人間がキミ相手にまともにヤり合えるわけがないか」
 独りごちると、ベリアルは城の出入り口の前へと急降下し、その荒い動きとは裏腹に雅やかに着地するとジータを下ろす。それと同時に認識阻害の魔法を解いたのか、いきなり目の前に現れた謎の女たちに見張りの男二人は情けない悲鳴を上げた。
「やあ、コンニチワ。実はとある女性からの依頼でね。キミたちを殺しにきたんだ」
「は……はぁぁぁぁっ!? なに言ってんだお前!」
 不自然なほどのにっこりスマイルに不気味さを覚えた男はそれを打ち消すように怒鳴り、武器を構えるが、虚勢にしか見えない。
「ベリアル! 別に殺してとは言ってないでしょ! ……私たちは町の女性から、城に住み着くあなたたち賊を追い出してほしいと依頼された騎空士です。手荒な真似はあまりしたくはありません。どうか大人しくここから出て行ってはくれませんか」
 ベリアルの発言を訂正しつつ、まずは話し合いで解決しようと動くが、男たちは武器を構えたまま。ジータ自身も話せば分かる者たちではないと分かっていたのですぐに切り替えると、まずは自分の目の前に立っていた男に一般人に毛が生えた程度の者の目には視認すらできない速度で腹に拳を入れ、気絶させた。
「…………!?!?」
 残りの男からすればいきなり隣の男が倒れたのだ。もう頭の中は真っ白。魔法を使った形跡もなく、そもそも蒼髪の女が動いたのかさえ分からない。
 未知の存在に対する恐怖がひたひたと忍び寄り、今にも発狂してしまいそうなくらいに男の顔は青ざめ、体は極寒の地にいきなり放り出されたかのように大きく振動している。
「ほら、早くナカの仲間を呼びに行きなよ。なんのためにキミだけ残したと思ってる」
「ひっ──ひぃぃぃぃぃ……!! ばっ、化け物……!!」
「…………」
 脱兎の如く城の中へと逃げていく男を見て、ジータは憂いを帯びた表情を浮かべる。堕天司の女王すら下し、その力の宿る武器たちを統べているのだ。見た目は人間でも、中身は違う。自分でも分かってはいるが、実際に言葉にされ、恐怖の宿る目を向けられると心に隙間風が吹く。
「特異点」
 呼ばれ、ベリアルへと視線を移す。すると彼女は茶目っ気たっぷりにウィンクしてくるではないか。自分の魅力を十分に理解してなければできないあざとさだが、少しだけドキッとしたのはジータだけの秘密。
 ついでに暗い気持ちもどこかへ消えてしまった。
 悪女に変わりはないが、気を紛らわせてくれたことには素直に感謝することに。
「なあ、キミもワタシと同じことを考えているんだろ? こちらから探すより相手に出てきてもらったところを一網打尽にした方がラクだ。だからこそ、一人だけ残した」
「まあそうだけど……。あんまり怖がらせるとかわいそうだよ」
「まったく。悪党相手に優しいこった。いいや、それともその傲慢さは人間を卒業しているせいか? キミからすれば彼らは思わず慈悲を与えずにはいられないほどにか弱い存在だからな」
 前言撤回。やっぱり性格は最悪だ。
 だがいつものベリアルの調子になぜか安心してしまう自分もいることに、だいぶ彼女に毒されてきているという自覚はある。
 ──中が騒がしい。怒号や何十人もの足音が発せられ、ジータは静かに息を吐くと表情を引き締め、城内へと踏み入った。
 内部は人相の悪い人間たちで溢れ、悪意に満ちている。賊たちはリーダーらしき男を中心にジータたちを取り囲むように陣を組んでおり、殺気に満ちた目をしているが、圧倒的強者である二人からすれば子犬のかわいらしい威嚇に過ぎない。
「ぞろぞろとまぁ……。特異点、キミひとりの身体で全員の相手をできるかい?」
「答えなんて分かりきってるくせに。で、あなたは見学?」
「それも悪くないが、ワタシは縄を探してくるよ。町の憲兵に引き渡すんだろう?」
 単独行動を宣言するとベリアルはジータに背中を向けながら片手をひらひらとさせ、城内探索へと向かうが、今までの二人のやり取りを呆然と見つめるばかりだったリーダー格が我に返ると「逃がすな!」と大声を上げた。
 その声に、同じく心ここにあらずな状態だった部下たちも意識を現実へと戻し、ベリアルの一番近くにいた男が剣を振り上げ、斬りかかってきたが……。
「へ……?」
 振り下ろされる剣を片手で刀身を握るようにして止めると、触れた部分からヒビが広がっていく。まるでクッキーを握り潰すかのような軽い動きで呆気なく折れてしまった剣。落ちる剣の破片を見て静まり返る場に響くのは地面と接した金属の短い音だけ。
「いきなり突っ込んでくるなんてヒドイじゃないか。フフフフ……まさかこんなガラクタでワタシに挑んでくるとは。その愚かさは褒めてあげるよ。えらいえらい」
「ひ……!」
「ベリアル」
「……ハァ。心配しなくてもその気があったら今頃こいつの身体は真っ二つだ。キミも分かるだろ? 特異点」
「……なるべく早く縄を見つけてきて。そう長くは保たないだろうから」
「オーケイ。善処するよ」
 萎えたと大きなため息をつくと、ベリアルは目的の物を探しに城の奥へと消えていく。それを邪魔する者はこの中にはいない。
 賊たちも異常な女が大人しく去ったことに内心安堵し、見た目普通の女であるジータが残っていることに一斉に視線が刺さるが、ジータ本人はものともしない。
 悪党とはいえ、身体能力は一般人とあまり変わらないはず。実力の次元がすでに違うのだ。昔は気を引き締めて対峙していたが、全空一とも名高い位置にまで登り詰めた今では自分でも不思議なくらいに気持ちが落ち着いていた。
「大人しく捕まってはくれませんか?」
「だっ、誰が……! テメェら! やっちまえ!」
(……やっぱり、こうなっちゃうのか)
 ベリアルの異常さを見せつけたのだ。大人しく投降してくれるかもしれないとほんの少しだけ期待していたが、現実は思い通りにはいかなくて。
「オラァッ!! ……あれ?」
 熱せられる一方の場の勢いに任せて、ドラフの大男が殴りかかってきた。ドラフ男性と小柄なヒューマンの女性という肉体差から、武器など要らないと判断したのだろう。
 素手だろうと、武器を持っていようと、ジータには関係ないのだが。
 繰り出される攻撃を避けようともせず、ジータは片手を前に突き出す形で男の拳を受け止める。本来であれば体格差もあり、ジータの方が吹き飛び、最悪死んでしまうパンチだ。
(なんて軽い……)
 これでは団の仲間の攻撃の方が遥かに重い。
 元の世界にいる仲間たちの顔を思い浮かべながら追想していると、男が残ってる方の手で殴りかかってきたがそれをひらりとかわすと、逆に男の腹めがけて拳を放つ。
「うぎゃっ……!」
 たった一撃ながらもダメージは大きく、男は呻くと腹を抱えながらその場に倒れ込む。額からは脂汗が大量に流れ落ち、その巨躯は生まれたての子鹿のように震えが止まらない様子。これではしばらくは動けないだろう。
「……ッ、怯むなぁっ! 女はたった一人だ! 全員でやれば殺せるッッ!!」
 賊のリーダーが叫ぶが、それはまるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
 手下たちも鼓舞によって己を奮い立たせ、ジータへと向かっていく。自分たちは数十人、相手は一人。一斉に攻撃を加えれば、誰か一人くらいは当たるはず。
 しかしそんな希望的観測も簡単に打ち砕かれる。
 繰り出される攻撃たちをひらり、ひらりとかわしながら、ジータは極めて作業的に一人ひとり確実に戦闘不能にさせていく。
「な、なんなんだこの女……! 強すぎるとかいう次元じゃねぇぞ……!?」
「こっ……こんなの勝てるわけがねぇ! 嫌だ……! 嫌だぁッ!! 俺は逃げるッ!!」
 攻撃が一切当たらない上に、味方ばかりが倒れていく状況にこの場から逃げ出す者も現れ始めた。威勢のよかった怒鳴り声は情けない悲鳴へと変わり、異次元の強さを誇る蹂躙者に広間は阿鼻叫喚の地獄へと化す。
 かといって逃がすつもりはジータの中にはない。殺すつもりは全くないが、捕まえ、町の憲兵に引き渡し──その後の処遇は町の人間に任せるが、おそらく秩序の騎空団へと引き渡されるだろう。
「……最後に残ったのは、あなただけみたいだけど」
「ひっ……! ひぃぃぃぃっ……!!」
 騒がしかった場も数分後にはすっかりと静かになり、残っているのはリーダーの男だけ。あれだけ部下を煽っておきながら今は非常に情けない顔をして、半分涙目になりながら震えている。
「遅いよベリアル」
「そう言うなって。これでも急いで探してきたんだぜ?」
 背後から近づく靴音にジータは前を向いたまま声をかければ、ベリアルは縄の束を投げた。
 それを視線を動かさずに片手でキャッチすると、男を見る。もう彼には抵抗する気力はないようだ。青ざめた面様をしながら、ジータと視線を合わせないように床を見つめている。
「ねえベリアル。他の人たちを縛るの、手伝ってほしいんだけど……」
「人遣いが荒いねぇ。まるでファーさんのようだ」
「そんなこと言ってルシファーに必要とされるのは嬉しいくせに」
 逃走できないように男を縛り、縄の束をいくつかベリアルに向かって投げると、キャッチした彼女はしょうがないなといった面持ちで両肩をすくめる。それでも手伝ってはくれるようで、床に伸びている男たちを次々と縛っていく。

   ***

「ジータさん。ベリアルさん。私の願いを聞き届けてくださり、本当にありがとうございました。これでまた静かになります」
「エリーさん!? どうしてここに……」
 しばらくして。全員を拘束し、意識を飛ばしていた者たちもちらほらと回復し始め、さあ町に戻ろうと考えていた頃。突然後ろから依頼主の老婆の声が聞こえ、驚きながら振り向けば、町で会ったときと変わらぬ姿がそこにはあった。
 町でも煙のように消えてしまい、今だって気配を一切感じなかった。一体どういうことなのか。
「あなた方には感謝してもしきれません。……申し訳ありませんが、その者たちを町の人間に引き渡してはいただけませんか? 引き渡した後は然るべき対応をするでしょう」
「もちろんそのつもりです。安心してください」
「ありがとう。本当に……」
 そのときだった。
「えっ? ピアノ……?」
 どこからか美しいピアノの旋律が聞こえてきた。優しくて、どこか切ない音楽は聞いていると心が浄化されていくような気さえする。
 美しい音に老婆は目を丸くし「お嬢様……!」と呟くと、走り出す。老齢とは思えぬその素早さに呆気にとられたのも束の間。ジータは「待ってください!」と叫びながら老婆の跡を追う。
 ずっと黙っていたベリアルも軽くため息をつき、ジータの背中を追いかける。
 残された男たちは遠くなっていく二人を見つめながらそれぞれ困惑の表情、中には恐ろしいものでも見たような表情をしながら互いの顔を見合わせるのだった。

   ***

「やっと追いついた……!」
 エリーを追ってやって来たのは中庭だった。ベリアルと一緒に上空から見たときに草木も朽ちていた寂しい場所だったのを思い出す。
 中心辺りには雨風に晒されて見る影もないピアノらしき物の残骸があった。どうやら音はあそこから聞こえるらしい。
「お嬢様、お嬢様なのですね……!」
 外と中の境界線で立ち止まっていたエリーはなにかを求めるように手を伸ばしながら、中庭へと足を踏み入れた。すると、幻でも見ているのか。枯れていた草木は暖かい光に包まれ、青々としたかつての姿を取り戻していく。
 緑色の大地に混ざる色とりどりの花たち。原型を保っていなかったピアノもすっかりと元通りになっており、椅子に座って弾いている人物の姿がはっきりと目に入った。
 美しく長い髪に上品な服装は、まさにお嬢様。
 無風だったはずの中庭には優しい風が吹き抜け、女性の長髪がふわふわと流れていく。
 太陽の日差しもスポットライトのようにピアノと女性に注がれており、夢でも見ているかのように美しく儚い光景が広がっていた。
 さらには老婆の姿もどんどん若返り、服装すらクラシカルなメイド服へと変化し、可愛らしい雰囲気の年頃の──かつての姿を取り戻した。
 その間もピアノの演奏は続き、若返ったエリーは女性から少し離れた場所で心地よい音色に耳を傾ける。
「…………」
 ジータは庭と城内の境界線を踏み越えることができず、立ち尽くすのみ。
 動けなかった。ここから一歩足を動かしたら、二人だけの聖域を壊してしまいそうで。
 目の前の奇跡に釘付けのジータと違ってベリアルは珍しいものでも見るかのような顔だ。興味深そうにエリーたちを見ている。だがそこには感情などない。
 眼前で起きていることをただ記録する。それだけ。
 少しすると長かったようで短い奏楽は終わり、女性は立ち上がると、慈母を連想させる微笑みを浮かべながらエリーの前へと歩む。
 女性はすらりとした高身長で、エリーの前に立つと彼女の顔が胸元辺りにくるほどだ。
「エリー……。ようやく会えましたね」
「お嬢様……お嬢様っ……! 私はっ、私はずっと後悔しておりました……! あなたのことを心から愛していたのにっ、あなたの結婚に耐えられず逃げるように屋敷を出た……!」
「そんなことを言ったら私もよ。落ちぶれつつあったこの家を再興するために父が決めた結婚。……様々なしがらみを振り切ってあなたとこの島を出ればよかった。……私にはその勇気がなかった。でも」
 泣きじゃくるメイドをしっかりと受け止めながら言の葉を散らす女性の眼差しが、ジータへと向けられる。
「勇敢で心優しいあなたのおかげで私たちは昔年の悔恨から解放され、ようやく結ばれることができました」
「体が……!」
 二人の体からは光の粒子が立ち上り、肉体も徐々に透けていく。
 生前の強い念でこの島に縛り付けられていた魂たちが、新しい旅立ちを迎えるときが来たのだ。
「ジータさん、ベリアルさん──」
 最後にこちら側へと体ごと向いたエリーの満ち足りた笑顔とともに贈られた感謝の念は、言葉にならずともしっかりと耳に届いた。
 激しくなる一方の魂の輝き。二人の足元からほとばしる光の柱は完全に彼女たちを包み込み、まばゆいほどの光が消えたときには、今のいままでそこにいた女性たちの姿はどこにもなかった。
 ただ、廃墟に近いこの城の中で起きた奇跡は彼女たちが天に昇ったあともしっかりと残っており、これが白昼夢ではないことを示す。
「エリーさん、幽霊だったんだ……」
 現世で一緒になることができなかった二人。もし来世というものがあるのならば、今度こそ一緒になって幸せになってほしい。
 今日に至るまで様々な依頼を受け、その数だけ違った結末と迎えてきた。その中には残念ながらハッピーエンドとはいかないものもあったが、この依頼は寂しいながらも二人の愛を垣間見ることができた優しい結末か。
「やはりキミは気づいてなかったか。あの人間が霊体だったこと」
「ベリアルは最初から気づいてたの? その上で依頼を受けるような流れに持っていった……」
「ワタシがこのご婦人は幽霊だぞと言ったところでキミは依頼を受けていただろうに。……そうそう。ワタシ、結構気が利く星晶獣でね? 虚空に話しかけるキミが町の人間たちに怖がられないよう、早々に認識阻害の魔法をかけてあげたんだよ」
「ぅ……。それは……ありがとう」
「どういたしまして」
 豊かなまつ毛に縁取られた両目を閉じ、微笑むとベリアルは踵を返して来た道を戻り始める。ジータもまだ仕事が残っていると、後ろ髪を引かれつつもベリアルに続く。
(来世が許されるのならば、今度こそ結ばれますように)
 優しい光に照らされるピアノに向かって心中祈り、ジータはベリアルと共に賊を連れて町へと戻った。

   ***

 町に到着後、真っ直ぐ憲兵たちの詰め所へと賊たちを連行するといきなりのことで驚かれたが、無事に引き渡しも終わった。
 彼らの話では秩序の騎空団に依頼をしようとしていたらしく、ちょうどいいタイミングでジータが賊たちをひとり残らず捕らえてくれたので何度も感謝の言葉を贈られ、沈んでいた気持ちがほんの少しだけ晴れた。
 あとは憲兵たちが秩序の騎空団に連絡し、賊を引き渡すだろう。自分の役目はここで終わり。あとは町でいつも通り情報を集めるだけだ。
 さあ行こうと詰め所から出るとすぐにこの町の長を名乗る初老の男性に声をかけられた。
「私がこの町の町長をしている者です。騎空士殿。あの城に巣食う悪人たちを捕らえてくださり、本当にありがとうございました」
「いえ、私はただエリーさんからの依頼を受けただけで……」
「……エリー? まさか、でも……」
 エリーの名前を出すと男の顔色に動揺の色が混じる。明らかにエリーを知っている。ジータは町長が切り出すのを黙って待っていると、彼はこちらの様子を伺うように極めて低姿勢で言葉を紡ぐ。
「そのエリーという者はどんな見た目をしていましたか?」
「上品なお婆ちゃん、って感じでした。あと、依頼の報酬としてこれを私に……」
「これは……!」
 そう言って指輪を差し出す。すると町長は目が飛び出るのでは? と思うくらいに見開き、ジータから指輪を受け取ると様々な角度から見つめた。なにかを確信したいようにじっくりと確認作業を終えること数分。満足したのか指輪が返された。
「あなたに依頼をしたエリーという女性の話をしたいので私の家に場所を移しませんか? 長い話になるのでお茶でも飲みながら。……もちろんあなた方がよければの話ですが」
「話はキミが聞くといい。気になるんだろう? その間にワタシは情報を探ってくるよ」
「分かった。話が終わったら宿屋で待ってる」
 ベリアルは興味がないだろうが、ジータとしてはエリーの話が聞きたかったので町長の提案に頷くと、ベリアルと別れて場所を移した。

   ***

 ──これといって特徴のない一般的な家屋の中は整理整頓が行き届いており、清潔感に満ちた心地よい空間に設置されているテーブルに着く。
 お茶を淹れに行った町長を大人しく待っていると、人数分のカップを持った彼が奥から現れた。
 目の前に置かれた飴色の飲料からは淹れたてを示す湯気が立ち上り、紅茶の香りはどこかホッとさせるものがある。
「さて、どこから話せばいいのやら……。まず結論から言いますと、あなたに依頼をしたエリーという名の女性は先日亡くなりました。そして……私の母でもあります」
「町長さんのお母さん……!?」
「実の母ではありません。私はみなしごでしてね、彼女に拾われたんです。……私が子どもの頃、寝物語によく聞かせてくれました。自分はあのお城に住むお嬢様と心を通わせていた。けれど理由がどうであれ、自分以外の人間と愛を交わす彼女の側にいるのがつらくなり、逃げたと。その後、しばらくして城主とその家族もろとも賊に殺され、それ以来あそこには誰も近付かなくなった。……母を除いて」
 男は紅茶を一口飲むと、ソーサーに戻されたカップを両手で包むように持ち、揺れる水面に映る己の顔を見つめながら続ける。
「町の者が危ないからと言っても母は病気で体が動けなくなるまでは城に行くことをやめませんでした。それほどにお嬢様を愛していたんでしょうね。……晩年は大切な人から逃げたことをずっと後悔していました。それが彼女の魂を現世に縛り付けていた……。それにここ最近では賊も住み着いていましたし、母があなたに依頼したのも納得です。……母の魂は救われたのでしょうか。それとも、まだ……。いえ、すみません。変な話をしてしまって」
「エリーさんの魂は確かに救われました。それは私が保証します」
 どこか縋るような男の面持ちにジータは力強く頷くと城で起こった奇跡や、最後は愛し合っていた人と一緒に天へと昇っていったことを伝える。
 聞き入っていた町長も母親の魂が愛する人の魂とともに救済されたことを聞くと、彼自身もどこか救われたような安らかな表情を浮かべながら涙を流し、良かったとでもいうように何度も頷く。
「町長としてではなく、エリーの息子として改めてお礼を言わせてください。本当にありがとうございました」
「私もエリーさんたちを救うことができてよかったです。……あのっ、この指輪はもしかしてお嬢様がエリーさんに贈った物だったり……?」
「はい。そう聞いています。そして……永遠の愛を誓うように薬指に指輪をはめていた母は、生涯独身を貫きました。埋葬する際に指輪も一緒に入れたはずなんですが、不思議なこともあるものですね。いえ、今更ですね」
「そんな大切な物を私に……」
「それはあなたがお持ちください。母からの依頼の報酬です」
 ジータの手の中で輝く小さな輝き。大切な人からの愛のこもった贈り物を自分が持っていていいのかと不安がよぎるも、町長から持っているように言われてしまった手前、しまう以外の選択肢はない。だが、ジータの中では指輪をエリーに返そうという考えが固まっていた。

   ***

 時間は過ぎていき、夜もだいぶ深まった頃。町長からエリーの過去を聞かされたジータは眠れないでいた。理由はそれだけではない。今回泊まった宿の部屋に問題があった。
 いつもはダブルベッドの部屋に泊まっているのだが、あいにくシングルの部屋しか空いておらず、仕方なく別々の部屋に宿泊することになったのだ。
 この世界に無一文で放り出された当初は節約のためにダブルベッドの部屋ばかりに泊まっており、それは路銀に困ることがなくなった今でも変わらなかった。
 言ってしまえば慣れてしまったのだ。ベリアルと肌を寄せ合って眠る心地よさに。
 シルクのようになめらかな肌に形の整った豊かな乳房。ベリアル自身の香りや女性特有の柔らかい体はいつの日からか、無いとどこか寂しさを感じるようになってしまったのだ。
 もちろんベリアルには秘密にしている。きっとこちらの考えていることなど手に取るように分かるのだろうが、ジータが言葉にすることはない。
 今までの旅でツインだったりシングルだったりと、ダブルではない部屋に何回か泊まったことはある。どこか違和感を感じながらも眠れていた。しかし、今回はそれに加えてエリーの件があった。
 結果的に魂の救済をすることができたからいいじゃないかとは思うが、同時に──仕方がない理由とはいえ、愛する者同士が引き裂かれ、無念のまま命を散らしてしまったという事実が胸を重く沈ませる。
 考えてもどうにもならないと分かっているのに、脳が思考することをやめてくれない。
 正直ベリアルが羨ましくなる。彼女がこの件で自らの胸を痛めることなど絶対にないのだから。彼女の中ではルシファーとそれ以外という認識しかない。
「はぁ……」
 窓に背を向ける形で寝ていたジータはため息と一緒に体ごと反対側を向く。閉じられたカーテンの隙間からは月の光が漏れており、ますます目が冴えてしまう。
 今頃ベリアルは寝ているのだろうか。元の世界では少なくとも二千年は眠ることをしなかった彼女もこの世界では今までのツケなのか、人間と同じように自然と睡魔を感じるようになったのだ。
(って、ベリアルのことばっかり……)
 これでは恋人のことを考える乙女みたいじゃないか。
 確かに自分と彼女は肉体関係を持ってはいるが、生命のリンクを繋いで貰っているという手前、彼女の要求を呑んでいるに過ぎない……とは言いつつも、段々と体がベリアルを求めるようになってきている事実は覆すことができない。
 ひとり悶々とした気持ちを胸にくすぶらせていると、突然ふわりとした感触が全身を包んだ。
「ベリアル……?」
「ひとりのベッドは寂しくてねぇ。その様子だとキミも眠れなかったんだろ?」
「別に……。いま寝ようとしていたところ」
 体に絡みつく細い腕。耳にかかる湿った吐息。背中に当たるマシュマロ感。全て待ち望んでいたもの。事実、どこか隙間風が吹いていた胸がじんわりと満たされていき、体から力が抜けていく。
「浮かないカオをしてるな。もしかしなくてもあの二人のことを考えてたんだろう? キミも下らないことが好きだねぇ」
 背後から顎クイをされ、強制的に顔を上へと向けさせられる。逆さまの視界に映るのは興味なさ気な、どこか気だるげな光を宿す魅了の瞳。
「分かってる。考えても仕方がないってこと」
 ベリアルの手から逃れ、体ごと彼女の方を向く。シングルの狭いベッドでは自然と体が密着し、ジータの顔は誘惑の谷間に埋まる形になる。
 老若男女を惹き付けてやまない美の女神の双丘は優しく頬を包み、急激な睡魔を感じ始める。ベリアルなしでは生きられない体ではあるが、精神的な面も少しずつ、少しずつ侵食されているのを認めなければならない。
 この女に依存しては駄目だ。元の世界に帰ったら別れなければならないのに。けれどこの世界で自分のことを知るたった一人の存在に、心がその強固な壁を徐々に崩していってしまう。
「あの二人に同情? ワタシにはできないね。本当に愛し合っていたのなら、全てを捨てて逃げればよかったのでは?」
「あなたは人間と違う上位存在だからその選択ができる。けど人間の女性で、彼女たちの事情や当時の社会情勢を考えると仕方のないことなんだと思う」
「仮にワタシが人間だったとしても、その選択肢はないな」
「本当に……愛なんて言葉が陳腐に思えるほどにルシファーのことを想ってるんだね」
 最愛のルシファーを復活させるためにずっと独りで稼働し続けた果てに願いを叶え、終末の野望はジータたちに打ち砕かれた。
 確かにこの女ならばエリーたちと同じ立場に立たされたとしても、ルシファーの意思を無視して一緒に逃げるだろうと想像に難しくない。
「ねえベリアル。ルシファーのことが聞きたいな。私が寝るまで話してよ」
「へぇ? ファーさんに興味が?」
「私全然ルシファーのこと知らないし。ね、いいでしょ?」
 胸に顎をのせながら茶目っ気混じりに口にすれば、ベリアルも悪い気はしないのか想起するように目を閉じると心地よい低めの声で語り始める。
 ジータを抱き寄せたその手で背中をぽん、ぽん、と優しく叩きながら研究所での日常をぽつりぽつりと話す彼女はまるで母親のよう。
 親の記憶が薄っすらとしかないために心がきゅっ、と苦しくなり、ジータは甘えるようにベリアルの胸に顔を寄せて抱きしめる。
 錯覚なのだろうか。乳房からは甘い香りが漂い、絡まった糸がほどけるように思考が蕩けていく。
 異世界でしか享受することのできない不思議な関係に、ジータはまたひとつ堕ちていくのだった。

   ***

(ここ、あのときのままだ)
 数日後。島を発つ前に主なき城へとやってきたジータとベリアルは現在エリーたちと別れた中庭にいた。
 他の場所は朽ちたままだというのに、この場所だけは奇跡が起きたときから時間が止まったように緑と光が溢れている。
 純白の百合の花束を手に持っているジータは神聖な場所に踏み入るためか、若干の緊張を保ちながら中庭へと足を運ぶ。
 ピアノのそばに片膝をつくと花束を添え、近くにエリーから報酬として受け取った指輪を供えた。二人の愛の証はやはり在るべき場所に返すのが一番なのだ。
 目を閉じ、彼女たちの安寧を心から祈る。願わくば、彼女たちが再びこの世で出会えますように……。
「……ねえベリアル。あのときお嬢様が弾いていた曲って弾けたりする?」
 祈りを終えて立ち上がると、柔らかな陽光を受けて輝くピアノが自然と目に入った。当初はそんなつもりはなかったのだが、こうして実際に見ると例の美しい旋律が鮮明に思い出され、幻聴まで聞こえてくるようだ。
 ピアノの音でエリーはここにやってきた。ならばあの曲は二人の思い出の音なのでは? もし、それを再現できたなら……。そう考え、聖域との境界線で待機していたベリアルへと問い掛ければ、彼女は“当然だろう?”という顔でこちらに歩いてきた。
「彼女たちへの手向けとして弾けと?」
 興味のないベリアルからすれば面倒なことだとは理解できる。だが完全に再現できるのは彼女しかいないのだ。
 ジータはベリアルの両頬に手を伸ばし、優しく包み込むとそのまま引き寄せ、自らも背伸びをして唇を重ねた。ハリのあるふっくらとした唇は触れるだけでも本当に気持ちよくて、数秒後に離したときにはほんの少しだけ寂しさを感じるほど。
「……お願い、ベリアル」
 互いの呼吸が分かるほどの至近距離で願いを口にし、元の姿勢へと戻れば、ベリアルは「おねだりが上手くなったもんだ」と微笑を浮かべながらも黒革のピアノ椅子に腰掛けた。
「オーケイ。これでもピアニストだったときもあるし、なにより他の誰でもないキミのお願いだ。一曲披露しようと言いたいところだが、連弾はいかが? 音楽家のジョブを経験済みなんだ。少しくらいは弾けるだろう?」
「でっ、でも上手く弾けるか……」
「そこはワタシに任せればいい」
 ベリアルが言うように音楽家のジョブを経験してはいるが、ピアノはあまり触れてないので不安が残る。それでもエリーたちへの気持ちが勝ったジータはベリアルの隣に腰を下ろした。
 椅子は二人がけ用なのか、ジータが座ってちょうどいいくらい。かつての二人もこうして一緒に弾いたことがあるのだろうか?
「キミのタイミングで始めてくれ」
「うん……」
 不安は残るものの、ベリアルならばなんとかしてくれるという確かな信頼もあった。なにができないのか逆に知りたいくらいに基本なんでもできる女なのだ。それは星晶獣だからではなく、きっと人間だとしてもそうなのだと思えるほどに。
 ひと呼吸置いたのちに、ジータは鍵盤に指を置いて弾き始めた。するとベリアルも彼女に合わせて音を奏で、二人の演奏が混ざり合って一つの音楽へと昇華されていく。
 清らかな空気が満ちたお墓。エリーとお嬢様、二人の鎮魂、来世での再会を祈るように調べはいつまでも響き渡っていた。