私の安寧

「ベリアル……あんなところでなにをしている」
 雲一つない澄み渡った空は優しい風を吹かせ、ルシファーとジータの髪を撫でていく。ここは研究所の居住区画にある公園。二人は用事が終わり、その帰りだった。
 ふと、公園の方を見たルシファーは白い制服姿を見つけて足を止めて呟く。彼の後ろを付き従っていたジータも彼が歩みをやめたことに同じ方向を向いた。
 ここから離れた場所にベリアルともう一人、長い黒髪の天司がしゃがみ込み、なにかを見ている。
「あれは──サリエルね。最近のベリアルは彼と一緒にいるのをよく見るかも。ふふっ……あんな穏やかな顔して……。ベリアルにとってのサリエルはルシフェルにとっての安寧、サンダルフォンのような存在なのかな」
 蟻の観察に付き合っているベリアルはどこか優しげな目をしており、時折サリエルの横顔を眺めていた。見ているだけで温かな気持ちになるのか、ジータの頬は緩み、目尻が下がっている。
 柔らかな雰囲気を醸し出すジータだが、ルシファーは違うようで眉間に皺を作る。サンダルフォンに対してどこまでも辛辣な彼。ジータがその名前を口にするだけで面白くないようだ。
「“安寧”……。フン。愛玩具相手にか?」
「もう。またそんな言い方して……。サンダルフォンは素直でいい子だよ?」
 冷たく突き放す物言いにジータは困り顔をしながらやんわりとフォローするも、ルシファーには逆効果。
「自ら不用品に会いに行っているのか? ……お前の中庭への立ち入りを禁じた方がいいか」
 ギロリと睨み、より一層低い声での言葉は聞く者によっては縮み上がるほどの迫力。しかしジータは臆することなく、冷静なまま。目を閉じて首を横に振ることで否定した。
「違うよ。ルシフェルに誘われて。まだ自分ひとりで行ったことはないよ。彼の大切な場所に勝手に踏み入るわけにはいかないし」
「…………」
「それにね。サンダルフォンの──自分の役割がないことへの苦悩は分かるから」
 半分ほど開眼したジータは視線を己の足元へと向けて想起する。かつての自分は役割などない──強いて言えば実験体としての役割。その最後に待っているのは“廃棄”。必要なデータを取り終わった獣には用はない。
 創造主であるルシファーを父と呼び、慕い、つらい実験にも耐えられたのは親の役に立ちたかったから。ただそれだけ。
 もっとルシファーのそばにいたい。ひたすらに親を求めながらも、彼が必要としないのなら……と自らの運命を受け入れるべきかと心は感情の板挟みになっていた。
「お前にはアレと違って役割があるだろう」
「私の役割。お父さまの世話……。けどそれは私が造られた本来の役割ではなくて、半ば無理やり与えてくれたもの。でも……それがどんなに嬉しかったか。まだあなたのそばにいられるって」
 全てのデータが取り終わったと聞かされたとき、砕けてしまいそうなほどにコアが痛かった。それは心の悲鳴。
 嫌だ。死にたくない。もっとルシファーと一緒にいたい。
 自分の役割は終わった。用済みの獣をそばに置いておくほど、ルシファーは優しい人ではない。
 様々な思いでぐちゃぐちゃになっていた自分を救ってくれたのは、ルシファーの「お前に役割を与える」という言葉。
 その役割は即席で考えたようなものだったが、それでもまだ生きていられるということにジータは心の底から救われたのだ。
「こんなことお父さまに言ったら怒られるかもしれないけど、私にとっての安寧は──あなただよ」
 床へと向けていた顔を上げ、しっかりとルシファーを見つめながら彼の片手を両手で握るとジータは自らのコアが埋まっている場所、胸元へと触れさせた。
「不安なとき。悲しいとき。怖いことがあったとき。あなたのそばにいるだけで私は負の感情を忘れて心の底から安心できる」
 ジータの頬の血色がよくなる。コアも人間の心臓のように反応を示し、少しでもこの想いが彼に伝わりますように──と密かに願う。
 肝心のルシファーはというと、ジータに握られている手を見つめてなにかを言おうと口を開きかける、が。
「あっ、ベリアルが呼んでる。ちょっと行ってくるね」
 こちらに気づいたベリアルが立ち上がって軽く手を上げるのを見たジータはルシファーの手を解放し、彼の横を通り過ぎてベリアルたちの元へと向かおうとしたが、後ろから引っ張られる感覚に足を止めて振り向く。
 すると手首を掴むルシファーの手。彼が止める理由が分からず、ジータはきょとんとして小首を傾げる。
「お父さま?」
「…………」
 声をかけても無反応。そんな彼の目は掴んでいる手首へと向けられており、二つのユークレースは小さく揺れていた。まるで自分自身の行動理由が分からない。そういうように。
「あの、」
「……俺も行く」
 ほんの数秒動きを停止させていたルシファーだが、ジータの手首を離すと思考を巡らせた結果の小さな呟きを口にする。
 ボソッとした一言は常人ならば聞き逃してしまうくらいに微かなものだったが、ジータにはしっかりと聞こえていた。
「うん! いこっ!」
「ッ、急に走るな……!」
 彼の言葉にジータは全てを温かく包み込む柔和な笑顔を咲かせながら、今の今まで触れていた手を握ると一気に駆け出す。
 ぐい、と引っ張られ、淡白なルシファーにしては珍しく驚きの感情を発露させるものの、ジータを止めるようなことはしない。
 創造主と獣の優しいひとときを祝福するように、どこまでも穏やかな風が吹き抜けるのだった。