少女の殻を破って

 エテメンアンキ──ルシファーと特異点たちが戦う場から少し離れたエリアにて。そこには胸から血を流し、体中傷だらけのジータが壁に寄り掛かっていた。だらりと力をなくし俯く彼女はベリアルから与えられたウエディングドレスを思わせる黒い衣装が所々破れており、戦闘の激しさを物語る。
(あぁ──お父さま……)
 ルシファーの気配で彼が徐々に体力を削られているのが分かる。そのままいけば彼は……。だが今の自分には助けに行く力は残っていない。そもそも、その資格があるのかさえ分からない。
 大切なものが沢山あって。どれもこの手から落としたくなくて。けれどその願いはささやかながらも大きくて。ただ、大切な人たちと一緒に静かに暮らしたいだけだったのに。今は遠き過去の情景。それはもう永遠に叶わぬ願い。ならば選ばなくてはならなかった。
 だけど……できなかった。非情に、なりきれなかった。そのせいでサンダルフォンに胸を貫かれ、今に至る。
 もしベリアルのようにルシファーだけを愛することができたなら彼の計画のため、邪魔者を排除するために秘めたる力を引き出し、蒼い髪になって勝利を収めることができたはず。
 甘すぎたのだ。最愛の人のためにと他を切り捨てることができなかった。欲張りすぎて、全部失ってしまった。
「ベリ……アル……」
 上品な革靴の音が少しずつ近くなり、自分の前で止まるとジータは緩慢な動きで顔を上げた。そこには己と同じようにボロボロのベリアルが立っており、サンダルフォンから彼は自死したと聞いていたので──もちろんベリアルの偽装だとは思っていたが、こうして実際に姿を見ると生きていてくれて良かったと、心からの感情にジータの頬が少しだけ緩む。
「蒼髪にならなかった、いや……なれなかったが正しいか。まさかキミでさえも食い止められなかったとはね」
「……ベリアル。私はあなたがとても羨ましい」
「どうして?」
「あなたの彼への愛が私にもあれば……! ……結局、私は全て失ってしまった。あれもこれもと大切なものが多すぎて、少しでも多くこの手にともがいた結果がこれよ。サンダルフォンたちを止められず、お父さまは……」
「キミの空のように広く優しい心。それは美点でもあり、最大の弱点でもある。……マァ、計画なら練り直せばいいさ」
 差し出される手。それが示すのは共に最愛の人の救援に向かおう。だがジータはその手を数秒見つめると、静かに首を横に振った。
「私にはその資格はない。今の彼に必要なのは……ベリアル。あなただよ」
「……キミは、ファーさんの獣だ」
 今のまま、迷いを胸に抱いたまま彼のもとに行っても結局同じことの繰り返し。自分の中にある大切な人たちの中から最愛だけを選び、他を切り捨てられるようにならなければ。
 自分はルシファーの獣。彼のために自らの全てを投げ打つことができるようにならなければならない。だから今は駄目なのだ。さなぎが羽化して成虫になるように、少女から女へと変わらなければ。
「私は……ルシファーの獣。いつか必ず彼のもとに戻る。だからお願い。今はあなただけで行って」
 しっかりとした意志の宿った力強い眼差しを向ければベリアルは目を閉じ、諦めたのか「分かった」と差し伸べた手を静かに下げた。
「この先に騎空艇が停めてある。それを使って脱出するといい。おそらく特異点たちと一緒に、だけど。あぁ、それと艇には爆弾が仕込んであるけど……キミならなんとかなるさ」
「あなたって子は……ふふっ。最後の最後まで……。……さあ行って。お父さまにはあなたが必要よ、ベリアル」
 優しく慈愛に満ちた笑みを向けての見つめ合い。それに終わりがきたのは彼がジータの横にある通路の奥へと歩みを進めたとき。
 エテメンアンキが落ちていく音の中に確かに聞こえる靴音は遠ざかっていく。まるで半身が離れていくかのように胸が痛むが、この決断は自分にとっても必要なことだとジータは目を閉じた。
 いつか必ず、という確たる意志はあるが今は体を動かすのも酷く億劫。なんとかして脱出せねばとは思うが──薄くなる意識の中、ジータ自身はあまり時間の流れを感じてはいなかったが、どうやらベリアルと別れてからしばらく経っていたらしい。
 いくつかの走る音が奥からこちらに向かって近づいてくる。崩壊の音も聞こえなくなっていた。代わりに感じるのはとてつもないエネルギー。
 ジータは漠然と思考する。あぁ、あの預言者が次元の狭間に彼らを封じたのだと。
 ベリアルと再会したときと同じように壁に寄りかかり、俯いたままいれば一行がジータの存在に足を止める。彼らの表情は敵として、だが迷いながらも立ち塞がった一匹の獣をどうするか。
 しかし正義感の強い特異点の少年、グランには見捨てるという選択肢はないようだ。ジータを助けようと一歩踏み出すが、その前に動く影がひとつ。
「サンダルフォン……!? どうして助けるの、私はあなたたちの敵……!」
「俺が君を死なせたくない。そう思っただけのことさ」
 自分も満身創痍のはずなのにサンダルフォンはジータを背負い、仲間たちと共に出口へと向かう。ジータもまさか彼に助けられるとは思っていなかったので驚愕に声を少し荒らげるが、サンダルフォンは当たり前のように死なせたくないと告げ、ジータはすぐに言葉を発することができなかった。
「…………きっといつか、私はあなたを裏切る。そのときに後悔しても遅いよ」
「だったら何度でも君を信じよう。俺は……あの中庭でジータ、君に……ルシフェル様とはまた違った、全てを包み込む温かな光にいつも励まされていた。それが偽りだったなんて到底思えない。……思いたくない」
 数秒経ってようやく口にしたのは後悔するよという警告。それはジータの内に秘めたる覚悟を思えば間違いではない。この先、自分にどんなことが起ころうといつの日か必ず最愛の──ルシファーのもとに戻る。自分は彼の獣なのだから。
 サンダルフォンも薄々気づいてはいるのか、それでもジータを背負う手の力を緩めることはせずに逆に強めた。
 彼の言葉にジータの脳裏に浮かぶのは今は過ぎ去りし日々。満たされていた時間。もう永遠に戻れない安らぎ。
 ルシフェルが天司長としての役割で忙しく、中庭に来れないとき代わりに行って一緒に珈琲を飲んだり、お菓子を食べたりと他の星晶獣たちへ向けるのと変わらぬ愛を注いであげた。それは誰に命令されたからではない。ジータ自身の感情の赴くままにしたこと。
「…………」
 サンダルフォンの体にしっかりと掴まるその手が、ジータの心を示す──。

   ***

 堕天司の王による終末は回避されたのち、ジータは治療のために四大天司のウリエル、ラファエルのところに身を置いていた。
 自然に囲まれた土地での静養。体の傷は癒えても心の傷は簡単には癒えず、ジータは日がな一日ベッドの中から窓の向こうの景色を見つめるだけの日々を送っていた。
 胸にぽっかりと空いた穴には空虚が満ち、喪失感に体はうまく動かない。ルシファーの獣として生きると改めて誓った身ではあるが、だからといってすぐに行動には移せなかった。本来であればここから出て次元の狭間を開く方法を探さねばならないのに。
「ま〜た外をぼーっと見てるのか? たまには散歩でもしたらどうだ。俺でよかったら付き合うぜ?」
「ウリエル。ジータには休息が必要だ。彼女の心身は……」
「おっと、そうだ。今日はジータに客が来てるんだ。会ってやってくれ」
 いつ部屋に来たのか。ジータが彼らの存在に気づいたのはウリエルの快活な声で、だ。だがゆっくりとした動きで窓から室内に顔を向ける表情はどこか疲れている様子。
 自分にお客さん……? と思いながら見ているとウリエルたちと入れ替わりでサンダルフォンとグランが入ってきた。サンダルフォンならまだしも、まさか特異点まで来るなんて、とジータの目が驚きに丸くなる。
「その様子だとまだ不調のようだな。ジータ」
「……久しぶりだね、サンダルフォン。そして特異点。お見舞いに来てくれたの? ありがとう」
「今日は君を迎えに来たんだ。……君にはグランサイファーに乗ってもらう」
「……話が見えないよ。どうして私が特異点の艇に?」
 唐突な話にジータの表情は曇る。それもそうだ。乗る理由がない。しかも剣を交えた敵同士。
「ジータさん。あなたは終末を齎そうとしたルシファーに与するもの。僕やサンダルフォンの目が届く範囲にいてくれた方がいい」
「なるほど。理には叶ってる。この空にとって私は危険因子だもの。直接監視下に置く方がより確実性がある」
「──っていうのは建前で。実はサンダルフォンから相談があったんです。ジータさんにこの広い世界を見せたいって」
「グラン! 余計なことは言わなくていい……!」
「サンダルフォン……」
 柔らかな表情をしているグランに対してサンダルフォンは少々慌て、言葉を制しようとするが少年はジータとサンダルフォンの関係を思って最後はにっこりと快活な笑みを浮かべる。グランへ向けられていた目をサンダルフォンに向ければ、彼は気まずそうに一つ咳払いをして話し始めた。
「……ジータ。君は研究所では……言い方は悪いかもしれないが基本軟禁状態。ルシファーは君が研究所から離れることを許さなかった。羽が欲しいという君の訴えも却下するほどに」
「……いい? よく聞いてサンダルフォン。私はルシファーの獣。いつか必ず次元の狭間を開く。つまりは敵。そんな存在をわざわざ艇に乗せるなんて、他の仲間たちにも危険が及ぶと思わない?」
「君はそんなことしないさ。それに……かつて俺も世界に災厄を齎そうとした存在だった。だがグランたちとの旅で変われた。だから君も……いや、ナンセンスだな。もっとシンプルにいこう」
 ナンセンス、と視線をジータから逃すとなにかを決心したかのように真剣な眼差しでサンダルフォンは改めてこちらを見つめてきた。
「ジータ。俺と一緒に空の世界を見てほしい。君が思う以上に広大な、この蒼い空を」
「蒼い、空」
 差し出される手、その持ち主の顔はいつか見た幼い少年の面影はすっかりと消え、凛々しい青年の顔つきをしていた。
 ジータはひとつ呟くと窓の向こうを見る。広い広い、どこまでも続く蒼い空。二千年以上も前から憧れていた空。
 この空を自由に飛びたくてルシファーに羽が欲しいと願い、必要ないと却下されてからはより強く焦がれた。
 自分の知らない世界が広がっている。それらを知りたい。外の世界をこの目で見て、この耳で聞き、この足で大地を踏みしめたい。
 どちらにしろルシファー救出のためには空の世界に旅立たねばならないのだ。ならばこれは好機。サンダルフォンの純粋な気持ちを利用するようで後ろめたさも若干はあるが、これは今までの──少女だった自分の殻を破り、女として、ルシファーの獣として成長するために必要なこと。
 今まで感じていた倦怠感はどこへやら。清々しい気持ちで微笑むとジータはベッドから起き上がり、かつては庇護対象だった、そして今は天司長として立派に成長した男の手をしっかりと握り返すのだった。