清浄なる母の獣

「ベリアル、大丈夫……?」
 重い金属の軋む音とともに暗い部屋に一筋の光が漏れる。少女の細い声に応える声はなく、代わりに聞こえたのは苦しげな呼吸音。
 ジータは美しい顔に憂いを浮かばせ、部屋の明かりを点けた。瞬間的に明るくなる部屋の中心部分、床には傷だらけで倒れている黒服の男の姿があった。
 傷口からは血が流れており、痛ましいが、このまま放置していても死ぬことはない。逆にこの程度の創傷ならば数時間で再生するだろう。
 彼はベリアル。ジータを造ったルシファーの新しい作品で、彼らのことは“天司”と呼ばれている。ジータと同じく人型だが、ジータ自身は天司ではなくただの星晶獣。
「ファーさんらしいというか……まさかの放置プレイとはね……。でもどうしてキミが……?」
 顔を伏せていたベリアルが顔を上げる。彼からしてみればジータはルシファー付きの獣。ルシファーのそばにいるのが当たり前の存在。それがなぜここに?
 造られたばかりのベリアルはまだジータがどういう人物なのかあまり分からない。が、当初から色々世話をしてくれている存在なので悪い人ではない、という認識だ。
「あなたで耐久性の実験をするって言っていたから心配になって。いま回復魔法をかけるから少し待っていて」
 ベリアルのそばにしゃがみ込んだジータは彼の柔らかな髪をひと撫でし、まるで愛しい子を見るかのように慈しみに満ちた双眸を向けた。
 彼女を見ているだけで真綿にくるまれたような、非常に心地のよい不思議な感覚が生まれ、ベリアルは戸惑ってしまう。
 そうしている間にジータはベリアルの傷口に向かって手をかざし、回復魔法を唱えた。温かな緑色の光はベリアルの体を包み込み、傷口を塞いでいく。
 再生するから大丈夫だ。そんな言葉が脳裏に浮かんだものの、口にすることはなぜかできなかった。普段の生活ではまず味わうことのないこの感覚を手放すのが惜しい。
「傷は全部塞がったかな……? 動けそう?」
 見た目の傷は全て塞ぎ終わり、動けるかどうか聞かれる。正直四肢の骨が砕かれているが問題はない。人間ならば動けないだろうが、ベリアルは星晶獣。見た目は人でも中身の造りは異なる。
 加えて羽を出しての移動も可能だが、どうも気だるい。
 なのでベリアルは苦笑しながら四肢の骨折を告げた。こう言えば彼女はどんな反応をするのか──とベリアルがひとり思考を巡らせていると、ジータが動いた。
「なっ……!?」
「部屋まで運んであげる。じっとしていてね」
 そう言ってベリアルを背負う一連の動作に重さは一切感じられない。見た目が少女のジータが成人男性の体を持つベリアルを背負うというのはなんとも違和感が凄まじいのだが、彼女は気にせずに実験室を出た。
 ベリアルのいた部屋は外に面する場所にあり、まだまだ日は高く、草木を優しく撫でる爽やかな風が二人の髪をさらい、吹き抜けていく。
 気持ちよさそうに風を感じていたジータは「よしっ」と独りごちると、軽い足取りで居住区への道を歩き出す。
 普段ならば研究員などの往来がある道なのだが、今は不思議と誰も通らない。聞こえるのも自然の音と一人分の足音だけ。
「……なぜ、オレに優しくするんだ」
 今までずっと無言だったベリアルが口を開く。それは純粋な疑問。ルシファーから実験のことを聞いたからなんだというのだ。どうもジータは獣でありながら、獣らしくない。
「ん〜……別にベリアルだから優しくしているわけじゃないよ? ルシフェルでも同じ。だってお父さまの実験って度が過ぎることが多いというか……私も大変だったから」
 ベリアルはジータより後に造られた存在。詳しくは聞いていないが、様々な実験を繰り返されたことは容易に分かる。実際思い当たる節はいくつもあるようで、ジータは困ったように笑った。
 だが今のベリアルの意識はジータの過去よりも、彼女の口からルシフェルの名前が出てきたことに向いていた。理由は分からない。でもなぜなのか。コアの付近に暗雲が漂い始める。
 少しだけ、期待していたのかもしれない。
 ベリアルがまだ天司の繭──セラフィム・クレイドルの中にいたとき、ジータと思われる声が毎日のように語りかけてくれていたのだ。まるで自分の誕生を心待ちにしているかのように。
 けれど、今のジータの様子からしてきっとルシフェルにも同じことをしていたのだろう。
「私たち星晶獣はある程度の損傷は時間が経てば再生する。でも痛いのには変わりない。痛いときに一人は……寂しいよ」
 静かに告げるジータの横顔はかつての自分を思い出しているのか、力のないもの。
 そうこうしているとベリアルの部屋に着いた。中に入ったジータは窓際に置かれているベッドにベリアルを寝かせると、近場にあった椅子を寝台の横に置いて座った。どうやら先ほどの言葉通り、ベリアルのそばにいるようだ。
「あなたの性能ならあと一時間もすれば治るね」
 だから大丈夫。そう言うようにまた頭を撫でられるものだから、なんともむず痒い。それと同時に安らぎも感じ、ベリアルの表情が和らぐ。
 名も分からぬ黒い感情も、もうなかった。
「キミはオレのママのようだねぇ……。甲斐甲斐しく世話してさ」
「私がママ……? どうして?」
「ファーさん付きの獣であるキミのデータを元にオレたち天司は生まれた。造物主であるファーさんがパパなら、キミはママさ」
「ふふっ。あなたって面白いことを言うのね」
 ジータはベリアルやルシフェルのことを弟のようだと思っているのかもしれないが、ベリアルからすれば姉よりも母の方がしっくりときた。
 繭から生まれ落ちたときに初めて見た造物主の姿。その隣で今と同じように慈愛の眼差しでベリアルのことを見ていた彼女。
 常にルシファーの隣にいて、サポートをする彼女は彼の子供というよりかは伴侶に思えた。
「再生が終わるまであと五十六分。それまでここにいてくれるかい?」
「もちろん。ねえ、お話しない? 造られたばかりでまだあんまり話せてないし。私、あなたのことが知りたい」
 窓から差し込む温かな光がジータを照らし、その笑顔の眩しさにベリアルは目を細める。感情の起伏の少ない者たちばかりのこの狭い世界で、こんなにも素直な感情を向けてくるのはジータだけ。
 彼女を求める者が多いのも頷ける。誰も表立った行動はしないが、一部の星の民がジータに対して大きな感情を秘めているのを所内の様子でベリアルは知っていた。また、獣もジータによく懐いている。
 可憐で、無垢で、穢れを知らないルシファーの獣。
 ──自らで穢し、堕とした果てにどんな獣になるのか。
「オレも、キミのことがもっと知りたい」
 そんな欲望を抱いているとは微塵も感じさせない好青年の笑顔を貼り付け、狡知の獣は狙いを定めた。