ミアレシティ。観光に力を入れているこの街も夜になればZAロワイヤルとは別の大人の顔を見せる。
ネオン輝く一角。きらびやかな店が並ぶ中のひとつにセイカの姿はあった。
サビ組を一代で大きくした若き女傑。
紫のドレスシャツに、ペンドラーの爪を模した意匠入りのネクタイ。
黒のトラウザーズに、紫と黒のパンプス。
肩へ無造作に掛けたジャケットが揺れるたび、毒タイプ使いらしいモチーフと、胸元のメガストーン入りのひし形バッジが鈍く光る。
凛と歩くその姿には、陰で毒婦と囁かれるのも頷ける独特の圧があった。
ここはサビ組のフロント企業が経営するホストクラブ。
表向きは上品で華やかな世界。しかし、その奥に沈殿するおぞましい感情の泥を知らぬほど、セイカは甘くはない。
今夜は抜き打ちの視察だった。
ひとりでやって来たセイカに店のオーナーは冷や汗を掻いたが、ひとまず彼女を奥の奥、VIP席へと案内していく。
オーナーの後ろをどこか冷めた顔で歩くたび、肩よりも長い暗めの茶髪が揺れた。
豪奢なシャンデリアの下、整えられた笑顔と甘い言葉が飛び交う店内。男と女の駆け引き。
仕事をしつつお酒を数杯飲んで、帰ろうかな。
妖しい熱気漂う世界でひとり淡々と思考していると。
「あら……」
思わず、足が止まった。
セイカの視線の先にいるのは黒いスーツを着こなし、愛想のいい笑みを浮かべて客の隣に座るひとりの男。
特徴的な髪型。店のナンバーワンと比べても引けを取らない整った容姿。ジョウト地方の方言を巧みに使いこなす青年。
接客されている女も楽しそうに笑い、ほのかに頬を染めていた。
(なぜ彼がこんなところに……)
ミアレを救った英雄。脳を焼かれるほどに鮮烈な印象をセイカに残した、お天道様そのものの存在。初めて男に対して手を伸ばしたくなった唯一の人。
──カラスバだった。
エムゼット団所属であり、観光客の彼。
カロスの法律では一応成人しているが、彼の善性を知っているからこそこんな店にいるのが酷く不愉快で、胸に暗澹としたものが重く沈んでいく。
女の笑い声が耳につく。
セイカは数秒だけ黙ってそれを見ていたが、やがて静かに微笑んだ。
怖いほどに美しい、笑みだった。
「……指名するわ」
静かながらも通る声にオーナーがびくりと肩を揺らした。
セイカがわざわざ誰かを指名することは今までなかった。とはいえ、彼女が望めば、今ついている客を待たせてでも上位の男を回させることくらいできる。
だがセイカからすれば別に誰でもいいし、そもそも視察なのだからひとりで適当に見て回る。
けれど、今日は違う。知らない女に笑顔を振りまく彼を自分の元に繋いでおきたい。
なぜ彼が働いているのかは不明だが、この店で一番の力を持つのは自分だ。普段指名しない分、今夜くらいは。
「あそこにいる子。私の卓につけて」
「で、ですがあのキャストは臨時の助っ人でして。セイカ様を楽しませることなどとてもではありませんが──」
「どうしてあなたが私が楽しいか、楽しくないかを決めるの? ……偉くなったものねえ」
これはお願いではない。命令だ。
柔らかな口調の裏に隠された意図にオーナーは大げさなほどに体をビクつかせ、首を縦に振るしかなかった。
***
店の二階に位置するVIPルームは個室で防音もしっかりしているので、外の賑やかな声は全く気にならない。
オシャレなBGMを聞きながら、セイカは上質なベルベットのソファに腰を落ち着けていた。
ここに通されて数分。ノックがなされ、入室を許可すれば、入りづらそうに扉が開かれた。
カラスバだ。一階よりも明るいこの部屋では、その姿がよく見える。
シンプルな上下黒のスーツに同じ色のシャツ。全身黒コーデでもよく似合うのは、彼の整った容姿のお陰か。
ランクアップ戦の際。セイカに対して『その顔、歪ませたるわ』などと強気な発言──もちろん、実力も伴っていたが、他の人間がまずしないような態度にセイカの中で彼は“面白い子”になっていた。
そんなカラスバだが、なぜか顔色が悪い。もともと白いのがもっと白く見える。具合が悪いと言われたら信じてしまうほどに。
先ほどまで他の客に向けていた営業スマイルはもうどこにもなかった。
「あら、カラスバくん。こんなところで会うなんてね。もしかして、お金に困っているの?」
「ご、誤解や、セイカさん! これは依頼で、オレもこうなるとは思ってへんくて……!」
早口で弁解する姿に、セイカは足を組んだまま首を傾げる。
年齢の割には賢いカラスバが引っ掛かるなんて、今回はその依頼人の方が一枚うわ手だった様子。
本来であればその依頼人に直接“お話”するところではあるが、今回だけは許してあげよう。
よりにもよってセイカに見られたことがマズイと思っているのか、カラスバは目を泳がせるばかり。
セイカに男を弄ぶ趣味はないが、どうも彼に対しては初めての感情ばかり浮かぶ。
「ふぅん……?」
セイカは唇に笑みを浮かべる。
その笑顔が、逆に怖い。
カラスバもそれは肌で感じているのか、完全に視線を横へと逃してしまう。
セイカが一度も勝てないほどにバトルの実力は上でも、生きてきた世界が違う。
狙いを定めるように細められるセイカの双眸は、まるで獲物を前にしたアーボック。
「なら、お仕事として私を楽しませてくれるよね? カラスバくん」
「……っ」
断れるはずがない。
そもそも断るという選択肢すらない。
カラスバに、逃げ場はなかった。
「……隣、失礼します」
カラスバはぎこちなく腰を下ろしたが、いつものどこか生意気な様子は欠片もなかった。
借りてきたエネコのように大人しい彼が面白く感じるも、あの楽しそうな笑顔を私には向けてくれないの? と少しだけ胸が熱くなる。
「どうしたの?」
組んだ足に頬杖をつき、カラスバの顔を覗き込むように見つめる。
隣に座ってはいるが、ふたりの間にはキャストと客よりかも遠い距離があった。
「いや……」
「さっきの席では、もっと自然に笑っていたじゃない」
ぴく、とカラスバの眉が揺れた。
「……見てはったんですか」
「うん。相手も楽しげだったし。助っ人なのに人気者なんだね? カラスバくん」
声の調子は普段と同じ。だが逃がさないという、今にもカラスバを飲み込みそうな勢いの圧は感じているのだろう。
言葉の節々から放たれる棘に、カラスバは引きつった笑顔を浮かべるしかない。
「あなたの時間。全部買ってあげる。だから私だけを見てくれるよね? ──おいで」
「っ、」
静かな一言。拒否権なんてない。
動こうとしないカラスバにセイカの手が伸びる。そっ、と彼の肩に触れたと思った刹那。グイッ! と思い切り引き寄せられ、ふたりの距離は一気にゼロになった。
この状態で平静を保っていられる男はどれほどいるだろうか。
さすがの彼も恥ずかしいという気持ちがあるのか。セイカの腕の中。カラスバの陶器のように白い肌へほんのりと熱が通う。
「セ、セイカさん! この店、お触りはやってへんねん。せやから、」
「うん。なら今、この場でだけルールを変えるね? 私はカラスバくんに触れていい。こんなふうに……」
自由になっている方の手で、カラスバの手を上から覆うように握り、指の間に自分の指を絡ませる。
見た目は小柄ながらも彼も男。繊細さを残しつつも骨張った手を一本いっぽん丁寧に輪郭をなぞっていけば、触れている場所が熱を灯していく。
それがまた、たまらなく可愛らしくてセイカの微笑みは深くなる。
「っ……、いい加減にせえや! いくらサビ組のボスやゆうてもそこまでの権限ないやろ! 黒服呼ぶで……!」
彼はなにを聞いてこの部屋にやって来たのか。セイカのことをただの客だと思っている発言に、彼女も思わず喉の奥で笑いを転がした。
「ねえカラスバくん。ここって──言ってしまえば、サビ組のお店なの。……この意味、分かるよね?」
「な……!」
「この場に、君の味方は誰もいないの」
蜂蜜色をした瞳が見開かれ、彼にだけいだく歪な欲望に突き動かされたセイカはカラスバを体重をかけて押し倒す。
赤いベルベッドのソファがカラスバを柔らかく受け止め、セイカの長い髪が彼を閉じ込める。
互いの息遣いが感じられるほどの距離感。
カラスバの両腕は頭上で一纏めにされ、セイカの片手で固定されている。彼からすれば今の状態はアーボックに丸呑みされる寸前だろう。
眼鏡のレンズ越し、不安げに揺れるこがね色。それでも睨みつけてくる強気な態度に、優越感で口元がどうしても歪んでしまう。
本当に嫌ならば力づくで跳ね除ければいい。いくら押し倒されているといっても、セイカは女なのだ。全力で暴れれば抜け出すことくらいはできる。
それをしないのは、期待しているからか。あるいは知り合いを傷つけたくないだけか。
(なににせよ、甘い)
セイカは顔を近づける。ゆっくり。ゆっくりと。
動揺に乱れる呼吸。
上唇が触れるか、否かのところで。
「っ……ふふふっ……!」
セイカはカラスバの横に顔を沈め、こらえきれない笑いをこぼしながら体を震わせた。
ギュッ、とカラスバが両目を閉じるのがあまりにも必死すぎて、なんだか興が削がれてしまったのだ。
「ふふっ……! はぁ、面白い。カラスバくんの可愛いところも見れたし、勘弁してあげようかな」
「な、なんやねん一体……」
体を起こし、元の位置に座るとカラスバも起き上がった。セイカという女を理解したくてもできない。そんな表情をしている。
「なあ……こういうことは、普通、好きな人同士でやるモンやろ? オレとアンタはそないな関係やない」
「なら、恋人になる?」
「…………はぁ!? い、いきなり何いうねん!
オレをからかうのもいい加減にしぃや!」
さらりと告げれば、さすがのカラスバも額に青筋を立てて声を荒げた。
うやむやになっていた空気がリセットされ、緊張の糸が張る。
だがセイカはまるで威嚇してくるこいぬポケモンを見るような、温い眼差しで続けた。
「本気だったら? ……私。君のこと諦めるつもり、ないよ?」
小首を傾げ、逆にカラスバくんはなにを言っているの? と言わんばかりだ。
あまりにも動じないというか、ブレない様子にカラスバも段々と怒りの感情が萎んでいったのか、最後は項垂れるように息を吐いた。
「それは……ちょっと考えさせてください」
「まあ、君の選択がなんであれ、私には関係ないんだけどね」
「さり気なく怖いことゆうの、やめてもろてええですか」
緊張の空気は霧散していく。セイカもこんな女に気に入られて可哀想に。と、他人事のように憐れむ気持ちはあれど、逃がすつもりは毛頭なかった。
***
結局カラスバは最後までセイカに捕まったままだった。
それでもお酒を嗜みつつの会話がメインで、最終的にはポケモンの話題に落ち着いていた。
やがて閉店時間が近づき、セイカは何事もなかったような顔で席を立つ。
カラスバはその後ろを半歩遅れてついていくしかない。
VIPルームを出て下に移動すれば、もう客は残っていなかった。
セイカを見送るために待っていたのか、ホールには店の男全員が集まり、その視線が一斉にふたりに注がれる。
頬をわずかに赤くした青年と、満足げな顔のボス。
ふたりを見て息を呑む男たち。
誤解しない方が無理がある。
「……最悪や」
「なにが?」
「なにが、やあらへんやろ……」
「ふふ。大丈夫。みんな、君が私に気に入られたって理解しただけだから。それより、帰る支度をしておいで」
それのどこが大丈夫なのか。
カラスバがげんなりと項垂れながらもバックヤードへと向かう横で、セイカはオーナーに向かってにっこりと笑った。
「今日は今までで一番有意義な視察でした」
本当はカラスバと話をしていただけだが、胸が躍ったのは揺らぎようのない事実だった。
「はっ……! はい! セイカ様に喜んでいただけて嬉しいです」
「──それと」
優しげな声だった。しかし、この場の温度が一気に下がったように冷える。
誰もがヤバイ……! と、顔を強張らせた。
セイカはオーナーに近づき、その肩に片手を置く。
軽く触れているだけなのに、ずん……と重い物を載せられたようにオーナーの額には冷や汗が滲む。
「あの子に依頼したのがあなたであれ、他の人間であれ」
「ッ……!」
「もし次も同じことをしたら──分かるよね?」
微笑みは崩れない。
けれど、そこに宿るものを見誤るほど、この場の誰も愚かではなかった。
「も、もちろんでございます! 二度とこのようなことは……!」
「そう。賢くて助かるよ」
満足げに頷いたセイカは男たちにねぎらいの言葉を送りつつ、戻ってきたカラスバを連れて外へ出た。
酒で火照った体に、柔らかく吹き抜ける夜風が気持ちいい。
横目に見るカラスバは動きやすさを重視した服装で、どこにでもいる一般男性。
フォーマルな服も似合っているが、こちらの方が見慣れている分、安心感があった。
セイカにとっては眩しいほどの太陽。日陰でしか生きられない自分が手を伸ばしてはいけない人だと分かっていても、伸ばさずにはいられない。
「……ほんまに、何してくれてんねん」
「なんのことかな?」
セイカが前を歩き、カラスバを夜の世界から連れ出している最中。
ぽつりと呟かれた言葉の意味は、どれのことを言っているのか。
「……脅しとったやろ。オーナーを。なに言うたのかは知らんけど、あの場の空気やおにいさん達の顔見れば分かるわ」
あぁ、あれのこと。
それでも、セイカからすればあの場で釘を刺したのは正しいことだった。
カラスバに依頼者のことをどれだけ聞いても、教えたらセイカがなにかするのではと危惧し、守秘義務やからと明かすことはなかった。
しかし店の関係者なのは確かだ。部下たちを使えば、依頼者のことなど簡単に突き止められる。
だがそれも面倒なので、あえてあの場で釘を刺した。
オーナーであれ、黒服やキャストの誰かであれ。店の関係者たちの前で脅しておけば、二度とカラスバを店で働かせようとは思わないはず。
人の口に戸は立てられない。勝手に話は他の店にも広がり、カラスバを夜の世界に誘う手はなくなる。
それほどにセイカは恐れられていた。
「──だって、嫌だったから」
セイカは立ち止まると、振り返る。
「……は?」
「君が、あんな場所で他の女に愛想を振りまくのが」
さらりと言ってのける。
カラスバは数秒固まったあと、餌を待つコイキングのように口を何度も開閉させ、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「反則やんそんなん……!」
「反則?」
「そういう言い方するんが、です」
「ふふ」
セイカは鈴を転がしたように笑う。
きっと今夜のことは噂になるだろう。あのサビ組ボスに若いスバメができたと。
でも。今はそんなことはどうでもいい。
他の女に向けるはずだった笑顔も、営業用の甘い声も。
今夜だけは全部──自分が奪ったのだから。
終
