アナザースカイ【おぞましき狂い愛。されど、純愛】

 不完全な空の世界は時として別世界と繋がってしまい、迷い人がやってくることがある。
 この空の特異点であるジータとは違う世界からやってきたジータが空の世界の母親との約束を果たすために舞い戻って数日。
 再びベリアルの庇護下で暮らすようになった彼女は疲弊した心身を回復させるため、かつて彼と一緒に暮らしていた家で静かな日々を送っていた。
「さっきの行列……あれはお葬式をやっていたの?」
「ああ。男たちが棺を運んでいただろう? あれは空葬と言って、あのまま島から落とすんだ。空の世界の一般的な葬儀方法さ」
 どんよりとした曇り空の下、ふたりで食材を買いに出掛けた帰り。購入したものをしまいながら、ジータは隣でお湯を沸かしているベリアルに思い出したように聞いてみる。
 悲しみに包まれた男女たち。大きな棺を運びながらどこかに向かっていくのを見かけてそう思ったが、どうやら当たりのようだ。
 かちゃ、かちゃ、と上品な食器の音を奏でながらベリアルは淡々と答え、ジータは興味深そうに相槌を打つ。
 自分のいた世界とは違った常識。根っからの研究者であり、ルシファーを親に持つゆえに彼の異常なまでの知識欲の鱗片を持つジータはこういった文化のひとつでさえも知りたいと思うのだ。
「そうだ。キミの世界で最もポピュラーな葬儀方法はなんだい? 空と違って浮いたりしていないなら……土葬?」
 紅茶を用意し終えたベリアルが菓子と一緒にテーブルにつく。ちょうど食材をしまう作業も終わったので休憩がてらに彼の目の前の席に着席し、ジータは眼前に置かれた飴色の飲料をひとくち。
 香りと味を楽しみながら、自分のいた世界では火葬が一般的だったと伝える。その他にも土葬だったり鳥葬など様々。空葬とは少し違うが、空から散骨する空中葬なんてものもあった。
 ベリアルもジータに倣うように紅茶をひとくち。カップを手に取り口に運ぶ簡単な所作だけでも美しいのだから、自然とジータの視線は己と同じ色をしたレッドスピネルと交差する。
「なら……別世界のオレも最後は骨に?」
 興味がある、という口調だ。別の世界とはいえ自分の死後、どのような形で墓に入っているのか。火葬が一般的ならば今頃骨になって墓の下?
 しかしジータは肯定することはせず。形の整った唇を三日月にすると小さくかぶりを振り「ここだよ」と胸の中心に手を添える。
「本来なら火葬して、その骨はお墓に入るんだけど……ママは違う。……私が、食べたの」
「ほう……。カニバリズム──なるほど、母親の死後も彼を離さないという狂気的偏愛。いいねぇ、あまりの偏り具合に達してしまいそうだ。ぜひ詳しく話を聞かせてくれ」
 白魚の指を顔の前で組み、狂気をものともせずに受け止める別世界の母親の姿にジータは安堵する。もし彼に拒絶されたらどうしようと──いいや、母さんが拒絶するわけがないとは分かっていたが、万が一として胸にあった不安が霧散していく。
「ママが亡くなって……私がマトモだったらそのままお別れだけど、どうしても彼と離れたくないと考えた私はママと引き離される前に逃げて、彼のすべてを自分の中に収めた。ママの魂はパパのところへ送り出すんだもの。せめて肉体は、ってね」
 かつてのときを思い出す。彼が亡くなることは理解していた。お別れの覚悟もしていたはずだった。だが彼が焼かれ、骨になって墓に入ることを想像したら元々狂っていたのがさらに狂った。
 まるで番を亡くしたオメガになった気分。不安定になり精神を蝕む狂愛に抗うことなく堕ちていき、彼の遺体を家族すら知らない場所に運んで、そこで……。
 時間をかけて彼とひとつになっていくと不安定になった精神が少しずつ安定していくようだった。けれど元通りとはいかず。
 ジータは、壊れてしまった。

   ***

「…………はっ、」
 スイッチが入るように意識が鮮明になったジータは目の前に映る光景に混乱した。
 明るい光に照らされた部屋は忘れもしない。自分の家。目の前には掃除の行き届いた清潔なキッチンが見える。あぁ、ここから見える景色は自分の指定席。ここからいつも料理をしているママを見ていたな。
 あぁ、やっぱり。自分の置かれている状況を目で確認して、思ったとおりの席だと理解したのもつかの間。
「ママ……?」
 さっきはいなかったはずの存在がキッチンに立っている。──ベリアル。ジータの運命の番であるのと同時に血の繋がった母親。彼女にとって最愛の人。
 彼は料理をしているのか、その赤い宝石は手元へと向けられている。
(待って……そもそも私はなにをしていたんだったけ? ママが死んで、母さんに会いに行って……。……ママが、死んだ……?)
 自然に思考していた内容に言葉を失う。なぜ彼が死んだなどという考えが浮かんだのか。空の世界の母は再会を約束したが、まだまだそのときではないはず。
「マ……マ……」
 ふらふらと立ち上がり、ベリアルの元へと行けば作業の手を止めてジータと向かい合うも、言葉を発することはない。
 どうしてなにも言ってくれないの? 謎の焦燥感に駆られたジータは涙を滲ませながら母の胸に飛び込む。
 ぎゅうぎゅうと抱き締めればしっかりと抱いているはずなのに感触がない。それがこれは夢なのだとジータに示す。
 過ぎ去りし日々の温かな記憶。戻れるならば戻りたい輝かしい日常。永遠に失われし時間──。
(あぁぁっ……!)
 これで何回目だろうか。母が亡くなってから精神の安定が失われ、ひび割れていく心を繋ぎ止めるかのように夢が魅せる幻。
 会いたい。ずっとそばにいたい。募るばかりの思いはぽっかりと穴が空いたままの心から流れ落ちていくばかり。
「ママ。ずっとずっと一緒だよ」
 だからこそ彼を食べたのだ。肉も。骨すらも。
 死してなお一緒にいたいという狂気という名の恐るべき愛を向ければベリアルは困ったような、嬉しいような微笑みを向けながらジータを深く抱きしめ、頭を撫でる。
 触れられている感覚はないが、母が受け入れてくれているような気がして。
 結局は夢なのだから自分の都合のいいように見ているにしか過ぎないのだが。
 思考の片隅には冷めた考えが浮かぶが、ジータは見て見ぬふりをして亡き母との愛に溺れていく……。

   ***

(……?)
 自然と持ち上がるまぶた。目覚めのときに抗うことなく目を開ける。
 ベッドから見える天井はママが死んでも変わらない。ただ、色褪せて見えるだけで。
 気だるい体を動かして横を見る。誰もいない。当然だ。彼はもういないのだから。
 ──ママが死んでから私は一心不乱に次元の穴と不老不死の研究に没頭した。番を失ったオメガのように不安定になった精神を誤魔化すように。余計なことを考えないように。
 さて。今日もまた色のない一日が始まる。
 身支度をして部屋を出てリビングへ。がらん……としているものの、掃除は行き届いているから汚れはない。
 私のことを心配してくれる人が色々やってくれているの。俺はあなたに命を救われた。だから最後まで尽くします。って。
 私は今も昔もあなたを利用しているだけと伝えたけどそんなことは分かりきっているとハッキリ言われて……。だから利用することにした。彼を私と同じように老化を著しく遅くさせて、寿命を無理やり伸ばして。
 子どもたちは私がママを食べたことを知り、いくら変わり者だから、運命の番を失ったから……とはいえさすがに看過できず、恐れられて段々と来なくなった。唯一の情は通報されなかったことかな。
 別に怒っても悲しんでもいない。彼ら彼女たちにはすでに自分の家族がいるし、ここまで狂った人間に付き合う理由はない。
 社長──ベルゼバブさんにも「狂っているな」とは言われた。蝿を見るような目だったけどどうでもいい。いくら嫌悪しても私を──私の頭脳を手放すことはできないのだから。
 それでいい。私は最高の設備が整っている場所で自分の研究に没頭できる。彼は私の作ったもので富と力を増す。Win-Winの関係。
「会いたい……」
 がらんどうの家に吐き出す本音。浮かぶのは“ベリアル”の姿。私の愛した男。なのにこの世界にベリアルはもういない。
 母さんに会いたい。空の世界のベリアルに。
 だから私は今日も生きている。彼がいなくなったことで色が失せた、セピア色の世界で。

   ***

「ベリ……アル…………」
 夜もとっぷりと深まり、外からは野生動物の鳴き声が聞こえる時間。しじまの空間が広がる寝室にて。
 窓から差し込む月明かりに照らされる大きなサイズのベッドに隣同士で体を横たえるのは、ジータとベリアルだ。
 異世界の母に寄り添うように眠る姫君からは微かな声とともに雫が頬を流れ落ちる。眠ることをせず、ずっと娘の寝顔を見つめていたベリアルは指先で涙をぬぐい、そのまま頭を優しく撫でてやる。
 同じジータでも特異点に向けるような悪辣さは鳴りを潜め、慈悲深き微笑みをたたえると、異界の娘の悲しみをまた拭う。
 こうして彼女が泣くのはもう何度目か。起きているときは仮面をつける彼女も眠りに堕ちているときは本当の思いを口にする。
 運命の番であるベリアルのことを彼女は生き続ける限りずっと想い続ける。身に覚えのあることにベリアルは愛おしさが増す。
 同じベリアルでも空の世界の自分はここまでの愛を向けられはしない。ジータは母さんと慕ってはくれるが、ママであるベリアルには想いの大きさでは敵わない。その決定的な違いに思わず妬いてしまうほどに。
 ベリアルの中にはルシファーとそれ以外の認識しかないはずで、他人にどう思われても関係なかったはずだが。どうも特異点ではないジータに対しては庇護欲とともに別の感情を抱いてしまう。
「ん…………。あれ……? 私、家に……。……母さん……?」
「大丈夫? うなされていたけど」
 まどろみの瞳ながらもジータは空の世界のベリアルのことを正しく認識し、あやすように頭を撫でてくる彼の手つきに安心するように表情を崩すと、そのまま悲しげに眉を下げた。
「今までのは全部、夢……。…………私、ママの方が依存していると思ってた。でも違う。本当に依存していたのは私。ママを食べて一緒になっても、母さんに会っても──もうママだった“ベリアル”はいない。その現実に打ちのめされそうになる……。私、こんなにも弱い人間になっちゃった……」
「…………」
 自嘲するように力なく口角を上げ、呟くジータの首元にベリアルの手がそっと伸びる。
 決定的な言葉を口にすることはないが、悲痛で弱々しい面様を見れば誰でも分かる。本当は彼の元に逝きたいのだと。
 これは堕天司ベリアルの慈悲でもある。空の世界に戻ってきた彼女はこの世界に来るために今まで生きてきた。けれどここにいても苦しい思いをするだけならば、せめて異世界の母である自分が……。
 男の大きな手は女の細い首を掴み、弱いながらも力が加わる。圧倒的上位存在の彼が少しでも力を入れれば簡単に折れてしまう柔い骨。死の気配にジータは慌てることすらせず、逆に安らいでいた。
 生きているうちはママには会えない。ならば死んだあとは? もしかしたら……。
 最後は母さんに殺されたい。けれど今はまだそのときはない。この世界に来た理由は母さんに会いたいだけではないのだから。
 彼の役に立ちたい。願いを叶えてあげたい。もしそれらが叶って、もうなにもない状態になったら──彼の手で死にたい。
 尋常ではない精神状態にあるジータは自分の命が散る際のことを想像しながらベリアルの手に己を重ねて首から離し、握り合う。愛しいともう片手で腕を絡ませ、恍惚の顔で手に頬擦りをする。
「私がこの空に舞い戻ったのは母さんに会いたいだけじゃない。あなたの役に立ちたいから。だからまだ死ねない。でも──全てが終わったら、母さんの手で殺されたい」
 うっそりと微笑むとジータは母とお揃いのオルディネシュタインをゆっくりと閉じて再び夢の世界へ。
 ベリアルは彼女の願いに答えることはなかったが、もしその時が来たら叶えてやるつもりではあった。彼女が自分以外の誰かによって命を終えるのを想像だけで暗澹あんたんとした感情が渦巻くのだから。
(なあジータ。キミは自分の依存を責めているが……。そう仕向けたのは他ならぬオレ。キミのママさ)
 片手でジータを深く胸に抱きしめ、弱くなったと自分を卑下する彼女に語りかける。そう。彼女のせいではないのだ。原因があるとすればそれは他ならぬ母親であるベリアルなのだから。
(別世界のオレ。キミは彼女を自分から離れないようにゆっくり、じっくりと仕込んでイったんだろ。その気持ち分かるよ。こんなにもキレイな純愛を、しかも運命の番という特別な存在から向けられたら自分が死んだ後も誰にも渡したくない)
 もしも同じ立場だったら──。きっと彼と同じことをしていただろう。だからこそ理解を示すのだ。
(同時にファーさんの元に逝きたい気持ちもある。だからこそ娘が自分の死後も囚われたままでいようと画策した。……ワガママがすぎるんじゃないか? どっちも欲しいだなんて、さ)