空の世界に迷い込んでしまい、別世界の母・ベリアルの庇護下で暮らすようになってしばらくして。
自然豊かな島。街外れにぽつんと立つ家屋に彼女の姿はあった。
雲ひとつない澄み渡る空。穏やかな風に吹かれて木々が癒やしの音を奏でる平和なひととき。
だいぶ異世界生活にも慣れたジータはベリアルに呼ばれて寝室のベッドの脇にちょこんと座っていた。
ここで待っているように言われ、部屋を出ていった彼。どうしたんだろう? と首を傾げていると、戻ってきたベリアルの手には銀色なにかが。
(人の……首?)
ジータからは後ろ姿しか見えないが、日の光を受けて輝く部分は髪の毛に見える。普通の女の子ならば人の頭かもしれないと感じたら恐怖心をいだくものだが、ジータは元の世界で表に出せない実験をしているために驚くことはなく。
ベリアルも好奇心が混ざる視線がじっ、と手に持っているものに注がれているのを見て軽く口角を上げた。彼女はコレがなにかと分かった上で、恐れもせずに逆に純粋な興味を向けてくる。やはりこの子は自分とルシファーの子どもなのだと。
「キミにはオレの宝物を見てもらいたいと思ってね」
「これ……!」
隣に座ったベリアルが手に持っているものをジータの方に向ければ彼女のレッドスピネルはこれでもかというくらいに見開かれる。
人の頭部だというのはなんとなく察してはいた。けれどこれはどういうことなのか。目の前にある顔は紛れもなくルシファー。自分の父と同じもの。
顔だけを見れば眠っているように見えるそれ。異世界に母がいたのだ。父だって。そうは薄々感じていたものの、まさか首だけになっているとは想像もしていなかった。
なぜこんなことになっているのか。そもそもの話、ホルマリン漬けにもなっていないのに腐敗もなく綺麗なままなのはどういうことなのか。
彼もベリアルと同じように星晶獣? 生活に慣れたといっても未だ空の世界は謎ばかり。
「パパ……なんで……」
手を伸ばせばベリアルはすんなりとジータに自らの命よりも大事な宝物を渡す。
「彼は……自らの被造物の手で活動停止状態に陥った。本当はカラダも回収したかったがあの状況だと首だけで精一杯。……彼の首が腐敗しないのも空の民とはまた違う、星の民という人間だから。空とは仕組みが異なる星の世界の生まれでね、また詳しく──」
続きの言葉は自然と途切れる。ジータは胸の高さで両手に持つ首に注視し、きっとなにも聞こえていないだろうから。
「……パパのことは好き?」
「…………」
ベリアルからの問いに視線を交差させたジータはすぐに答えることができなかった。これがママだったなら即答できるのに。
ルシファー譲りの天才的頭脳でもこの感情を言葉に表すのが難しい。そもそも彼に父親のことを言われるまで考えたこともなかった。なので今の自分にできる答えはひとつ。
「…………分からない」
「分からない?」
太ももに置いたルシファーの首にばつが悪そうに視線を向けるジータをベリアルが覗き込む。すると年齢相応の、彼女の発言に相応しい顔をしているではないか。形の整った眉を寄せ、強張る頬。真一文字に結ばれた口。
「……あっ! パパのことが嫌いなわけじゃないよ? 遊んでもらった記憶はないけど……。難しい本を一緒に読んだり……。……思えば、親孝行する前にいなくなっちゃったんだよね……」
もしや誤解しているかもしれないと弾けるように顔を上げたジータは言葉を連ねる。好き嫌いの前に彼はいなくなってしまったのだ。そう突然に。本当に呆気なく。けれどある意味彼ならばあり得る死に方で。
実験や研究に明け暮れる日々。自らの体を顧みない異常なほどの知識欲に従った彼は自宅で倒れ、そのまま亡くなった。過労死。ジータがまだ幼少の頃の出来事だ。
そんな彼との在りし日の記憶を紐解けば、
「ねえパパ! なに読んでるのー?」
「……お前に言っても理解できん」
「そんなことないもん! パパのお膝で一緒によもーっと!」
自宅にいても地下にある研究室にこもってばかりのルシファーが珍しくリビングのソファーで読書をしている際に、膝に乗って読んだ本。
彼は面倒くさそうにため息をついていたがどかそうとはしなかった。最後までジータを膝に乗せたまま、彼女が詳しく教えてと言われたことには講義のように解説してやったりと本来のルシファーならば絶対にしないことを娘にはしていた。
(一緒にお風呂に入ったり、ママと三人で川の字になって寝たり……。あぁ……そうだ。ママと一緒におにぎりを握ったときも)
「なんだこの不細工な握り飯は……」
「ママと一緒におやつのおにぎり作ったの! 私が握ったのたべて!」
「…………。…………しょっぱい」
(形もいびつでお塩も強めなおにぎり。でもパパはしょっぱいと言いながらも……結局は美味しいとは言ってくれなかったけど、不味いとは言わずに全部食べてくれた。きっと彼の性格だったら一口食べておしまいなのに)
一度回顧すれば泉のように湧き上がる記憶たち。彼との大切な思い出。
体が震える。呼吸が苦しい。目の奥が熱い。
記憶の中にいる彼はたった数年の間だけだけれど、確かに親だった。ひとりの、父親だった。
「っ……」
母親譲りの赤い目から溢れる悲しみの雫。小さな雫はすぐに滂沱へと変わり、少女は華奢な肩を震わせながら異世界の父の頭顱を胸に掻き抱く。
嗚咽もやがては大きくなり、ベリアルは慈悲深い微笑みを浮かべるとジータを胸に寄せ、背中をさすってやる。まるで闇の聖母。
「パパが死んで……悲しむ暇なんてなかった。番を失ったママを運命の番である私が支えないといけない。守らなきゃ、って」
実際にルシファーが死んでからはベリアルの精神は不安定になった。それは番を失ったオメガという性の影響でもある。ジータは幼いながらも母であり、運命の人を支えるために父を喪ったことへの感情を封印し、献身的にサポートし──今の関係がある。
「キミは強い……いいや。強くならざるを得なかった。けど今はその鎧を脱いでごらん。オレが全部受けとめてあげる」
「っ……ッ……! ぁ、あぁぁっ……! なんでっ……なんで死んじゃったの、パパ……! ママと私を残してっ……!!」
きっと彼が生きていたら母親との関係も──運命の番であれ、今と同じかは分からない。それでも生きていてほしかった。もっと色んなことを彼から教わりたかった。
父を喪った日には泣かなかったジータはあの頃の分まで感情を発露させ、異世界の母の胸に縋った。
***
「……落ち着いたかい?」
「……うん。ありがとう、母さん……」
しばらくして。落ち着きを取り戻したジータが顔を上げれば当然ながら目元は赤く腫れていた。けれどその面様は憑き物が落ちたようにスッキリとしたもの。
父に対する思いを素直に言葉にしたからだろう。
「私、今まで考えないようにしていた。パパに対する思い。……ママを守る強い人にならなくちゃって、思い出してしまったら弱くなってしまいそうで……」
「キミはひとりで気負い過ぎだ。キミのママだってそこまでは求めていない」
「ふふ……本当にそう。……今なら言える。私はパパも大好き」
胸に抱いていたルシファーの首を目線と同じ高さにして呟く。
彼は、この世界のルシファーはジータの父親ではない。けれど“ルシファー”なのだ。ジータにとっては異世界の父。
もう本当の父親にはなにもしてあげられない。ならばこの人のために自分ができることをしてあげたい。それが例え空を滅ぼすものだとしても。
内に狂気を秘める少女は愛らしくふんわりと表情を崩すと、眠ったままの父に微笑みかける……。
終