「補佐官、最近たばこの代わりに飴を食べるようになった……? 飴が好きなの……?」
「あー……特別好きというわけじゃないんだが」
新曲の練習ということでスタジオに集まっていたParadise Lostの面々。その練習も終わり、帰る前にソファーで小休憩をしていたベリアルがジャケットのポケットからおもむろに取り出した棒付き飴を口にしたところで、正面のソファーに座っていたサリエルに声をかけられた。
サリエルの外見は成人男性だが、不思議そうに見つめるその目は幼子。ベリアルは気まずそうに頬をかくと、口の中に広がる甘ったるいイチゴの味を感じながら、タバコの代わりに飴を食べるようになった理由を思い出し始めた。
***
「ベリアルさん。それ、美味しい?」
「美味しい……というワケじゃないが、どうも口寂しくてね」
自宅のキッチンの換気扇の下で灰皿片手にタバコを吸っていたベリアルの腰辺りからする声は子供の声。聞かれたベリアルは視線をその子供へと向けながら、軽く笑む。
純粋な疑問を口にしたのは金髪の少女だった。見た目からして小学生の彼女の名前はジータ。
両親は不明。もともとはルシオ──またの名をサハルという、ルシファーの実の兄である男に拾われ、育てられていたが、あるときルシファーに預けられることになった。
──ベリアルたちには前世の記憶というものがある。
今の世界で例えるならば、前の世界はファンタジーの世界。そこでジータは特異点という進化を加速させる特別な存在だった。
ベリアルたちは彼女から見れば世界を滅ぼそうとした敵。今生でもルシファーは終末を諦めていない様子だが、今のところは音楽活動に興味があるようで今すぐ世界がどうにかなる……ということはなさそうだ。
そもそもベリアル含む全員が人間。もう特別な力はない。
記憶保持しているベリアルたちとは違い、かつての世界の特異点は記憶をなくし、ただの人間の子供になっていた。
ルシファーからそう告げられたバンドメンバーは驚き、ハナから世話をする気のないルシファーの代わりにベリアルが自ら申し出て、ジータの面倒を見ることになったのだ。
「口が寂しい?」
「そうなんだよ。キミが癒やしてくれるかい?」
「はい!」
軽く首を傾げ、問いかけるベリアルにジータは元気いっぱいの満面の笑顔で返す。
タバコを灰皿に押し付け、火を消したベリアルは手に持っていたそれを台に置くと、片膝をついて目線をジータと合わせた。アンバー色の瞳を持つ少女はなにをすればいいのかとベリアルの指示待ちだ。
「オレの唇にキスして」
「きす?」
「そう。チュウ、って言ったら分かるかい? 唇同士をくっつけるんだ」
「分かりました。……ちゅ」
大人ならば決して言わないであろう言葉。ベリアルには常識は備わっているが、モラルは皆無。
ジータは特になにも思っていないのか、ベリアルが望むように唇を重ねた。だがそこに淫らな雰囲気は一切ない。ただ重ねるだけの可愛らしいキス。
ベリアルとしてはもっと先に進んでもいいのだが、急くことでジータが怖がってしまうことは避けたい。いずれは彼女の全てを味わう算段ではあるが。
特異点の味見は自分の特権。それは今世の彼女も例外ではない。
それからはベリアルがジータの前でタバコを吸おうとすると必ず彼女が駆けてきて、彼にキスをするようになった。
どこか必死になっているような素振りが感じられ、それとなく理由を聞いてみれば、タバコの箱にある注意書きの内容を見て心配して……とのこと。
あまりにも愛らしい理由に吹き出すと、ジータは真剣なのかぷりぷりと怒ってしまう始末。それをなだめながらベリアルはやめどきかもなと考えていた。
彼自身、どうしてもタバコを吸いたい理由もないので自然と家で吸う回数が減っていき、タバコの紫煙をくゆらせるのも外での数回程度になった頃。
「ベリアルさん! これ持って行ってください」
「……棒付きの飴?」
「はい。家だったら私がキスしてベリアルさんのお口が寂しくないようにしてあげられますけど、外だとできないから。だから寂しくなったらこれを舐めてください! 甘くてとっても美味しいんですよ〜!」
とある日のこと。曲の練習のために出かけようとしたときだった。見送りに来てくれたジータから渡されたのは昔からお馴染みの市販の棒付き飴。そういえばこの間の買い物でジータにせがまれて買ったな、と思い出しながらベリアルは「アリガトウ」と彼女の優しさを素直に受け取ることにした。
これがベリアルがタバコを完全にやめるきっかけになった。今までタバコが入っていた胸ポケットには代わりにジータに持たされる飴が入るようになり、口寂しいときはそれを舐めて気分転換。
***
「まあ……ジータに飴を持たされてね。タバコを吸う代わりにこれを舐めてって。オレも特にタバコじゃないとイケない理由もないしなァ」
「……補佐官、嬉しい?」
「フフフ。愛おしいじゃないか。記憶がないとはいえ、あの特異点がオレのことを心配してくれているんだぜ?」
かつての記憶があったのならば、いくらお人好しだったジータといえど、今と同じ関係にはならないだろう。だからこそ、感じるものがあるというもの。
ベリアルはサリエルの問いに赤色の宝石を閉じて笑みを深めると、口の中で小さくなった飴をガリ、と噛み砕き、立ち上がった。
「さて、と。そろそろ帰らないとな。ジータが待ってる」
「ほう……。あの小娘の世話を率先して引き受けたと思ったらなかなか入れ揚げていると見る。今までルシファーに執着していた貴様が」
時刻は夕飯時。新譜が浮かんだと一人キーボードに向かっているルシファーを置いて帰ろうとするベリアルの背に声をかけたのは、ベルゼバブだ。
彼の言う通りジータがいなかったときはベリアルはルシファーが帰ると言うまでスタジオにおり、私生活でも諸々の世話をしていた。後者に関しては現在もそうだが、ルシファーとジータ。大人と子供という面からして過ごす時間はジータの方が多い。
「そりゃあファーさんのそばにずーっといたいけどさ。あの子もまだ小さいし、それに──特異点の味見はオレの特権だぜ? 幼いうちから教育しておかないとな。イロイロと」
それじゃあ、とウィンクを残してベリアルは出て行ってしまった。残されたベルゼバブはベリアルの言葉の意味を知り、瞬きを数回。
「……大丈夫なのかアレは」
個性豊かな者が集うパラロス。その中で唯一と言っても過言ではない常識人の彼の脳裏に一瞬過ぎったのは、在りし日に学業の中で読んだことのある某作品だった。
***
「ただいま、ジータ」
「おかえりなさい! ベリアルさん!」
自宅マンションの扉を開け、中にいる人物に声をかけながら靴を脱いでいると、遠くからスリッパが床を叩く音。それはすぐに近くなり、音の人物はリビングと玄関を隔てる扉を開けた。
玄関の明かりの下で咲く可愛らしい笑み。まだ十分に幼さの残るこの少女こそジータだ。彼女はベリアルの帰宅に嬉しそうに駆け寄り、腰を屈ませたベリアルの唇に愛らしいキスを一つ。
行ってらっしゃいとおかえりなさいのキス。もう二人にとっては当たり前の行為。ジータもこの行為に疑問など一ミリも感じてはいない。
「うふふっ。イチゴの甘い味がします。……あと少しでご飯ができるので先に着替えちゃってください」
「ああ。そうするよ」
ベリアルが舐めていた飴の味をほのかに感じたジータは顔を綻ばせると、キッチンへ戻るのだろう。扉の向こうへ消えていった。
ジータは年の割に本当によくできた子で、ほとんど手が掛からなかった。下心がありつつも子供を引き取るということは負担が増えるとベリアルは思っていたが、結果は逆に生活レベルが向上。最終的には彼女自身の願いもあって、家事全般をジータに任せることにした。
行ってしまったジータの小さな背を思い出しながら、ベリアルは考える。
くっつけるだけの子供のキスもいいが、いつこの先のキスへとステップアップしようか。
澄ました顔で邪なことを想像をしながら手洗いや着替えを終えたベリアルがリビングに戻れば、黒革のソファーにちょこんと座り、テレビを見ているジータの姿。
ピンク色のワンピースから伸びる健康的な双脚を見て、もう少し肉が欲しい……とベリアルは思う。いずれはかつての特異点と同じ姿になるだろうが、自分好みの体型に仕上げたい。
「いい香りだ。今日はなにを作ったんだい?」
「今日は煮物です。タイマーをセットしてあるのでそれまで休憩しようと思って」
隣に座り、彼女の柔らかな髪を撫で、毛先を長い指でクルクルと弄びながら聞けば、ジータはニコニコしながら答えてくれる。
彼女は一度もベリアルを拒絶したことがなかった。なにをすれば拒否の反応をするのか興味がないと言えば嘘になるが、下手に動いてこの先の計画を台無しにするほどベリアルは愚かではない。
ゆっくりと、優しく、ベリアル無しの生活が考えられないようにし、自分好みに調教した果てにようやく喰らうのだ。
「キミの作る料理はどれも美味しいからね。楽しみだよ」
「そうですか? 嬉しい!」
「ところで──今日の学校はどうだった? 楽しかったかい?」
子供向けの当たり障りのない会話。毎日必ずジータの様子を聞き、彼女は楽しかったよと内容を話してくれるのだが、今日は少し違った。
「楽しかったです。でも……」
ジータはいつもと違う声音で続け、リモコンを操作してテレビを消した。
「なにかあった?」
彼女に似合わない曇った表情。どうしたのかと顔を覗き込めば、ほんのりと頬が赤い。これだけでなんとなく嫌な予感がし、それは見事に的中。
「……今日、別のクラスの子に告白されて」
告白。その二文字が巨大な石となってベリアルを押し潰す。
可憐な彼女が誰かに想いを告げられるのは当たり前のことだ。それでも今までそういった話は一切出ておらず、この話題はベリアルにとって衝撃的だった。
相手はまだ子供だが、最近のガキはませているとベリアルが内心どうやって引き離すか算段を立てていると、顔を覗き込んだまま動かない彼に対してジータが控えめに声をかける。
それで我に返ったベリアルは大人の余裕の笑みを貼り付け、元の位置に戻った。人間になったことで狡知の役割もないのだが、以前と変わらず演技力には自信があった。
「今までそういう話を聞くことがなかったからな。驚いてしまったよ。それで、キミはなんて?」
「なんて答えたと思います?」
「こーら。質問に質問で返すものじゃないぞ」
二人きりの生活が始まったときはベリアルの顔色を伺うことの多かったジータだが、今ではここまで砕けたやり取りができるようになった。
微笑ましいことであり、自分に対して気を許しているということが分かっていいのだが、ベリアルは彼女の答えが気になってしょうがなかった。
「は〜い。……その気持ちだけ受け取ることにしました」
「つまり断った、と」
ベリアルに軽くたしなめられると、ジータはアンバー色の両目を閉じて己の胸の中心に手を当て、遠回しの答えを告げる。
それだけで断ったことは理解できるが、どうしても彼女の口からハッキリと聞きたくて問えば、返ってきたのは頷き。
半分ほど開眼した彼女はなにかを言いかけたが、躊躇うように口を噤んでしまう。だがどうしても伝えたいことがあるようで、深呼吸をすると横に座るベリアルを見上げた。
「私。好きな人がいるんです」
聞いた瞬間、ベリアルの時が止まった。彼のかんばせは特に変化はないが、内心は気が気でない。
「でもその人には大切な人がいて、私とはだいぶ年齢も離れていて……。片想いで終わりそうです」
だいぶ、という表現からして相手は成人に近い年齢か、成人済みの可能性が高い。ジータの年齢からして初恋であろう相手はいったいどこの誰なのか。
「それは──」
「あっ! タイマーが止まったみたいですね」
それとなく聞いてみようとした声は、キッチンから聞こえたタイマーの音に反応したジータの声にかき消された。
すくっ、と立ち上がってキッチンへと向かうジータの小さな背中を見つめながら、完全にタイミングを逃してしまったベリアルは悶々とする気持ちを抱えるはめに。
***
「ふ〜ふ〜〜ん♪」
肝心のジータはというと、パラロスの代表的な曲でもあるParade’s Lustを鼻歌で歌いながら煮物の様子を確認中。
彼女の背丈はまだキッチンで普通に料理するには低いので、ベリアルが用意してくれた踏み台に上っての作業だ。
味が染み込んだ色をしている大根を小皿に取り、味見をするとちょうどいい味なのか、ジータはほっこりとした笑みを浮かべる。
その微笑みになにかを思い出したように朱が混ざるが、ジータの立っている位置はベリアルのいる場所からは完全に死角になるので気づかれることはない。
(ねえベリアルさん。私、あなたが思っているほど子供じゃないですよ)
女の子は男の子よりも精神の成長が早い。ジータはベリアルの前では年相応にしているが、その心はちょっぴりお姉さん。
(キスだって……大人と子供。血が繋がっているならまだしも、私たちは繋がってない。普通だったらしません。挨拶でのキスもありますけど、頬で唇にはしない。ベリアルさんだからこそ、私は……。それにタバコだって……。もちろんベリアルさんの健康を思って、という理由もありますけど、本当はタバコの臭いであなたの香りが消えちゃうのが嫌だったから)
ジータにとっては一生叶わない片想い。年齢にそぐわぬアンニュイな笑みを一瞬だけ浮かべると、彼女は夕食の盛り付けに取り掛かった。
終