堕天司と娘の終末綺譚 - 1/4

 私には記憶がない。ベッドの上で目が覚めたらすっぽりと欠落していた。そんな私に残っていたのは最低限の生活の知識だけ。
 誰から産まれて、どんなふうに暮らしていたのか。なにも覚えていない。
 自分の名前さえ分からず、混乱して泣く私を抱きしめて安心させてくれてる人がいた。彼はベリアルといって、私のママだといった。
 私は捨て子でベリアル──ママは小さな私を拾って、ずっとこの家で一緒に暮らしていたんだって。
 ママが言うには私は階段から落ちて今まで目が覚めなかったみたい。そして目覚めたら、記憶をなくしていた。
 不安でまた涙がこぼれる私をママは慈しむように頭を撫で、大丈夫と囁き、またたくさんの思い出を作っていこう。ジータと私の名前を教えてくれた。
 ああ、本当にこの人は私のママなんだとすとん、と受け入れられた。だって私を包み込む腕が、顔を受け止める柔らかい胸が、とても優しかったから。
 私とママ以外の人は誰もいないこの島。自然豊かなここは野生の動物がたくさんいるけど凶暴な子はいないから動物の友達も多くできた。
 森の中。切り株に座りながらハープを弾いたり、お歌を歌ったりしているとウサギさんやイヌさん、ネコさん、小鳥さん。たくさんの動物たちが集まってくるの。でもママが来るとみんな逃げちゃう。なんでかな?
 それに……たまに頭の中にココと似たような、でも私の知らない景色が浮かぶことがあるの。
 私と同じくらいの背丈の男の子が私に向かってなにかを喋っているけど声の部分はザザーッ、って変な音が邪魔をして聞き取れない。目元もぼんやりしていて誰なのか分からない。
 ママに話したらママに拾われる前の記憶かもしれないと言われた。同時に気にすることはないよ。とも。
 私の目を見つめながら、ゆっくりと、言い聞かせるように話すママを見ているとあんなに気になっていたことがどうでもよくなってきて、今でも頭の中に過去の記憶らしきものがチラつくけど、気にしなくなっていた。
 ママと二人きり。箱庭のようなここでの生活は楽しいことがほとんどだけどつらいことも少し。
 私は特異点という特別な存在で、ママの望みを叶えるために必要と言われた。だから戦いの知識や技術をママから教え込まれた。
 強くなるための修行は大変で苦しいけど、ママのためになるならと頑張れた。

 外はすっかりと暗くなってお月様が柔らかく輝く時間。子供は寝る時間。私を寝かしつけるためにいつものようにママがお部屋に来てくれたんだけど、その手には赤い箱があった。
 天蓋つきのベッドに腰掛ける私の隣にママが座る。ふわりと香る匂いは大人の香り。
 ママは私の腰に腕を回すと抱き寄せてくれた。私もママに甘えるように頭を胸に擦り寄せる。
 ママの胸って男の人なのに大きくて、柔らかいの。私、本当にママの胸好きだなあ。すごく安心できるから。
 ママは私に色々な話をしてくれる。ママが研究所っていうところで毎日ファーさんっていう人のお世話をしていた話とか、この島の外にあるたくさんの島々の伝統や特産品、星晶獣の話……とにかく色んな話を私にしてくれる。
 記憶喪失の私にとってママのお話は楽しくて、ワクワクして。いつかママと一緒にその島に行きたいなあ、なんて思ったり。
 記憶をなくす前の私も同じことを思っていたのかな? だってママはこんなにも優しい。
「ジータ。今日はキミにオレの宝物を見せてあげようと思ってね」
「ママの宝物?」
「そう。ほら」
「ひぃっ!?」
「びっくりした? ごめんよ」
 膝の上に乗せている箱の蓋を開けるとそこには人の頭が入っていた。想像していなかったことに私は悲鳴を上げてママの胸に抱きつき、ぎゅうぎゅうと顔を押し付ける。
 震える私の頭をよしよしと撫でながらママはあやし、大丈夫だからと促す。ママがそこまで言うのなら、とおそるおそる箱の中のものを見ると、窓から差し込む月の光を受けて冷たく輝く銀色があった。
 ママがおもむろに箱の中身に手を伸ばすと、それを空いている手で持ち上げた。大切に大切に。
 箱を脇にどかし、革のズボンに包まれた太ももの上に人の首が置かれる。目を閉じているその顔は眠っているようにも見えるけど、息をしていないし、そもそも首だけの存在。
 人形のパーツ? とも思ったけどなんだか違う気がする。
「この人はオレの大切な人なんだ」
「ママの大切な……?」
「そう。オレを造った人。名前はルシファー。この方のためにキミには終末への露払いをしてもらう」
 ママは人の姿をしているけど人間じゃない。原初の星晶獣と呼ばれる存在で、堕天司と言っていた。
 いつもお話に出てくる人。ママが“ファーさん”と呼ぶ人が、この人なんだ……。とっても綺麗な人だけど、同時に怖さも感じる。首だけの存在なのに……。ママみたいにファーさんなんてとてもじゃないけど呼べない。
「ルシファー、さま」
「そう。オレたちのご主人サマ。敬うんだぜ? ジータ」
 こくりと頷けば、ママは嬉しそうに笑ってくれた。その顔を見ていると私の胸も温かくなる。だって大好きな人の笑顔だから。
「でもどうしてルシファーさまは首だけに?」
「知りたい?」
「うん」
「オーケイ。ベッドの中で聞かせてあげよう」
 ルシファーさまを箱の中に戻して近くのテーブルに置くと、ママは私を抱きかかえてベッドの中へと潜り込んだ。温かい布団と大きな枕に包まれた私はママと向かい合う。
 暗い色をした赤はいつ見ても綺麗だと思う。見つめていると吸い込まれそうで……。
 私の髪を弄りながら、ママは遠い昔を思い出すように目を閉じた。その長いまつ毛を見ているとなんだかドキドキしてきちゃう。ママ、美人すぎるよ……。
 昔話をするママの声は低くて心地いい。もともとの眠気もあるけど集中していないと寝ちゃいそうなくらいに。

「そんなことがあったんだ……」
「計画は停滞中。けど特異点であるキミなら、きっと……」
 話し終わったママは私を見つめながら髪を撫で続ける。
 考え方が違った結果、ルシファーさまは首を切断されて機能停止状態に。大怪我をしたママも空の民に紛れて傷を癒やし、天司長ルシフェルという人に隙ができるのを今でも待っていると。
 二千年という時間は私には想像もできないけど、大切な人を喪い、独りでずっと気配を殺しながらこの空を生きてきた。その事実に鼻の奥がつん、として目頭が熱くなる。
「ママ……」
「おやおや、どうしてキミが泣くんだ」
「だってっ、悲しくてっ……」
「ママのために泣いてくれてアリガトウ。キミは本当に優しい子だ。オレの自慢の娘だよ」
 ママの胸に顔を押し付け、声を殺して泣く私の背中をママは優しい手つきで叩いてくれる。
 記憶を失ってしまったせいでママとの大切な思い出もなくした私に変わらぬ愛をくれて、自慢の娘とまで言ってくれて。そんなママに私ができる恩返しは終末をもたらすこと。これしかない。
 この人のたった一つの願いを私が叶えられるのなら、叶えてあげたい。
 ママを悲しませる世界なんて──私が壊してあげる。