アナザースカイ【再臨】

 周りには草原が広がり、爽やかな風が吹き抜ける広々としたここは島の端に近く、人も魔物も寄りつかない場所。次元の穴の気配を察したベリアルに飛んで連れてきてもらったこの場所は初めて彼と出会ったところ。
 その中心辺りに次元の穴は開き、少し離れた場所に下ろしてもらったジータは真っ黒な球体状の中を見つめるが、暗闇に閉ざされていて向こう側は見えない。
 しかしなぜだろうか。見ているだけでどこか懐かしく感じ、自分はこの穴に踏み入らなければならないという感情が突き上げる。
 別の世界同士を繋げる神秘の穴。見た目ではどこに繋がっているのかは分からないが、感覚的に分かる。この穴の向こうに自分が元いた世界が広がっていると。
(ママ……)
 帰りたい。最愛の人のところへと。でも……。
 後ろ髪を引かれるようにジータは振り返る。背後に立つこの世界のママことベリアルはただ静かにその場に佇み、こちらを見つめているだけ。彼の瞳からはなにを思っているのかは読み取れない。
 その深紅の瞳は優しく細められていて、見ているだけで苦しくなる。──自分にとって一番大事な人は産みの親であるベリアル。だが空の世界に迷い込み、短い時間ながらも一緒に過ごした彼もジータの中で大切な人になっていた。自分の産みの親ではないベリアルだが、ベリアルという存在には変わりないのだから。
(この世界のママが独りぼっちになっちゃう……)
 二千年という気が遠くなるほどの時間孤独に生きてきた彼。それは創造主ルシファーへの愛。彼を復活させるためだけにルシフェルの隙を狙い続け、気配を消すために睡眠すらとらずにいる。
 ──これはただのエゴだ。ずっと独りでいた彼のそばにいてあげたいなんて。
 ジータはベリアルの目から逃げるように俯く。この世界か、元の世界か。天秤に掛けるほどのことではないはずなのに。迷ってしまうなんて。
「キミは言っていたね。ずっとママと一緒にいたいと」
 ジータは俯いたまま、首を縦に振って肯定した。空の世界に迷い込んでしまったトリガーでもある空想。愛する人との永遠。けれどそれはファンタジーの世界にだけ許されていて。
 この空の世界はそんなジータの願いを体現した存在である星晶獣ベリアルがいた。造られた命である彼は半永久的なもの。逆にジータの方が先に死んでしまう。
 いつか彼と話したことをジータは思い出す。もし不老不死を現実のものとすることができたとして、産みの親のベリアルはそれを望むだろうか。
 運命の番はジータ。だが彼にとっての最愛は亡きルシファー。その彼の元へいつかは逝けるのだ。永遠になることは一瞬かもしれない。けれどそれをしてしまったら死への道は閉ざされる。はたしてそれを彼は望むか? 答えは──分かりきっている。
「キミの世界でママと永遠を実現するのもいい。だがもしその道を選ばなかったら……またこの世界においで。世界が終わるまで何百年、何千年経とうがキミの帰りをオレは待っているよ」
「っ……!」
 ふわりと優しく抱き寄せられてジータの顔には柔らかい膨らみが当たる。あやすように頭を何度も往復する手は慈しみに溢れ、胸が苦しくなる。なんて甘美な誘惑。そんなことを言われたら、もう。
 彼は狡知の堕天司。人心掌握もお手の物。自分を駒の一つとしか思っていないかもしれない。それでも彼にそんな言葉を言われてしまったら、ジータの中で覚悟が決まってしまう。
 彼にとって自分は終末のための道具でもいい。彼の役に立ちたい。彼の願いを叶えてあげたい。たとえ嘘で塗り固められた言葉でもいいから。
「キミにこれを贈ろう」
「これは……ママの羽根?」
 体を離したベリアルがジータに差し出したのは闇色に輝く巨大な羽根。妖しく揺蕩うそれはまさしく彼のモノ。受け取れば柔らかく、触れている手がくすぐったい。
「きっとこれが道しるべになってくれるさ。キミがこの世界に再び舞い戻るためのね」
「ふふっ……あなたのところに戻るためには次元の穴を開かないといけないんだけど……随分簡単なことのように言うんだね」
「オレとファーさんの娘であるキミならできるさ」
 すでに空の世界に舞い戻ることが確定事項のようになっているがジータは訂正したりはしなかった。なぜなら彼女の頭の中ではもう次元の穴についてどう研究していくかの計画が練り始められているからだ。
 神に中指を立てて反逆計画を進めながら別世界同士を繋ぐ穴の研究。はたして寿命が尽きる前に成就できるのか。あぁ、一緒に不老不死についても研究すれば少しは時間を延ばせるかもしれない。
 ジータは羽根を大事そうに胸に抱きしめると振り返る。未だ収縮のきざしはないが、そろそろ行かなければ。
「ママ。……行ってきます!」
「ああ。行ってらっしゃい」
 さよならは言わない。必ず自分はこの世界に戻ってくる。そう決意したジータは数歩前へと歩き、ベリアルから離れると振り返り、最後にとびきりの笑顔を向けて次元の穴へと駆けていく。ベリアルもそんな彼女に向かって口元を緩めて返事をすると、穴の中へと消えていく少女の姿を穴が閉じるそのときまで見つめていた。

   ***

「ジータ、ジータ……」
「ぅ……うぅん……」
 心地よい声に導かれるようにジータは重たいまぶたを持ち上げた。最初はうっすらとした視界、やがて明瞭になるといつもと変わらない自室の壁紙、そして愛しい人の顔があった。ベリアルはジータが起きたことで改めて「オハヨウ」と告げるとジータもまだ眠たいのか、だらしない口調で返事をした。
「もう昼だぜ? いくら休日でも寝過ぎだ。……ほら、服を着替えて顔を洗ってきな。ご飯、食べるだろ?」
「……あれは夢だったの?」
「なにか言ったかい?」
「ううん。すぐに行くね」
 半永久的な命を持つベリアルという存在。あまりにも自分が母親との永遠を思うばかりに生み出した都合のいい夢だったのだろうか。寝起きの頭では判断がつかず、ぽつりと呟いた言葉は部屋から出ようとしていたベリアルの歩みを止めたが、ジータは緩く首を横に振ると彼は行ってしまった。
 ジータもパジャマから部屋着に着替えるためにベッドから出ようとしたとき、なにかに触れた。柔らかいなにか。ベッドの中へと視線を向ければそこには黒い羽根がひとつ。
「これ……!」
 空の世界のベリアルが別れ際に託してくれた自身の羽根。これがあれば次元の穴を開いたときに道しるべとなってくれるという。この羽根の存在が、あの空の世界での体験を実際にあったことだと示す。
 それなりに長くあちらの世界にいたはずだが時間軸が違うのか、こちらではほぼ時間が経っていないことは幸いだ。母を悲しませることはジータは望まない。
「まずはこの世界での自分の願いを叶えて、いつか必ず空の……ママの願いも叶えてあげる」
 神が創造した世界の秩序を壊し、空の世界をも壊そうとする果てしない野望をまるで小さなことのように呟くと、ジータは空の世界の愛しい人にこの想いが届きますようにと羽根に口づけた。

   ***

 蒼々とした澄み渡る空の下、次元の穴が完全に閉じるのを見届けたベリアルはこの場を去るために踵を返そうとしたが、視界の端に映る空間がひび割れていくのを捉えてその足を止める。
 ガラスが割れていくように少しずつ大きくなるヒビは新たな次元の穴が開こうとしている前触れ。ベリアルが穴と向き合えば、ヒビは大きな穴となって砕け、人ひとりが通れる穴からはヌウッと人間の片手が伸び、割れた空間の縁を掴む。
 その手に力を入れながら出てきたのは白衣を着た女性だった。見た目の年齢は二十代後半から三十代前半と若く、短く整えられた銀髪に血の色をした目は美しいというのに表情はどこか疲れている。
 白いブラウスに黒いタイトスカート、その上に白衣というひと目で研究職と分かる服装の女性はベリアルの姿を見ると瞳をこれでもかと見開くと固まってしまう。
 全てを察したベリアルは女性へと歩み寄ると、そのまま大きく両腕を広げてなにもかもを包み込むような包容をし、彼女の苦労を労るように「おかえり。よく頑張ったね」と何度も頭を撫でる。
 彼の閉じられた双眸、嘘と真を綯い交ぜにして言葉にするその唇は柔らかく口角が上がり、まるで闇の聖母。
「う……ぁ……あああああぁぁぁぁッ……!!」
 女性は縋るように抱きしめ、ベリアルの胸の中で声を上げながら子どものように泣く。それは長年の悲願が達成されたことへの至上の喜びと、愛する人に再び逢えたことへの歓喜。
「たくさんの辛い思いをしたんだね。でももう大丈夫。ママがついてるよ」
 頭を撫で、背中をさすりながら小さい子どもを宥めるような口調で語りかければ、女性は涙ながらに語る。神に反逆し、バース性の無い新人類が生まれ、今はバース性がある者たちより多くなっていること。
 また、元々バース性を持つ者たちも望めばその性別を捨てることができるようになったこと。
「私とママの──第二の性別が無い子どもたちが結婚して、バース性の無い子を産み育て、周りの……望む人間たちからもバース性を取り除いた。あの世界を創造した神に私、勝ったんだよ」
「キミとママは新世界のアダムとイヴになり、神が創り上げた性別を否定し、破壊した。惚れ惚れするよ。神に仇なすなんて」
「次元の穴の研究に不老不死の研究……。時間は掛かっちゃったけど私、この空の世界にまた戻ってこれたんだね」
「時間が掛かった、といってもそれほどには……いや。キミ、今いくつなんだい?」
「レディに歳を聞くなんてマナー違反だよ? けどあなたの思っている不老不死じゃない。体は科学の力で若いままだけど……不死にたどり着く前に次元の穴が完成したから」
 ジータの体を離し、指先で涙を拭ってやりながら彼女の話をベリアルはじっくりと聞く。ジータもひと通り話すと一旦切り上げ、両手を伸ばしてベリアルの顔を包み込む。
 ジータの本当の親である“ベリアル”はすでに故人だろう。それは彼も理解していた。彼女がこの世界に再び舞い戻ったことがなによりの証拠。
 目の前にいる男が幻じゃないか確かめるように触れるジータの顔は懐かしむように緩み、満足したのかベリアルを抱きしめた。
「ただいま……ママ」
「おかえり、ジータ。またキミに会えて嬉しいよ」
 運命の番であるベリアルを亡くしてどれほどの時間ひとりで過ごしていたのか。永遠に潤うことのない渇望。そして母性に飢えている女を安寧という繭で包むように抱擁してやれば、ベリアルの背を抱く腕に縋るように力が入る。
 ──別世界で神を否定し、新しい世界を創り出したジータは甘美な誘惑に抗うことなく自ら堕ちていく。
 神が不在の世界は今日も平和な空が広がる。広大な世界からすれば点のような場所から出現した絶望はひたり、ひたりと空の世界をゆっくりと、しかし確実に蝕む。
(ママ。この世界の神も私が殺してあげる)
 神の存在を否定し、破壊し、新世界の秩序を作り上げた神殺しの大罪人は堕天司に包まれながら心の中で中指を立てる。
 その狂気的行動原理は愛する“ベリアル”のため。ただ、それだけ。