ファーさんの被造物ジータちゃんとおくるみベリアルの話

 木々の隙間から漏れる柔らかな光を受けて輝く金髪。持ち主である少女は見た目こそ人間の少女だが、中身は星晶獣。
 彼女の名前はジータ。天司の前身として造られた獣ではあるが、その特異性からルシファーの世話という役目を得てデータを取り終わった後も廃棄を免れていた。
(う〜ん! いい気持ち! それに……)
 ちら、と隣を歩く人物を横目で見る。太陽の光が照らす暗い茶髪に誰もが羨む白い肌、真紅の瞳。ルシファーの作品である天司は誰もが美しい容姿を与えられるが、ジータ個人としてはベリアルが一番綺麗だと思っていた。
 今日はちょっとした散歩だった。ルシファーはジータが外出するのを好まず、研究所に軟禁状態。ジータ自身はそれを自覚していないが。
 いい天気だからと、少しだけだからとルシファーに許可を得ようとした彼女に対し、親であるルシファーはベリアルを同行させることで外出を許可した。
 代わり映えのしない緑の景色。だが、普段研究所にこもりきりのジータにとっては自然溢れる光景は見ているだけで心が癒やされた。それだけではない。隣には恋心を抱く相手、ベリアルがいる。静かな場所で二人きりの散歩。つまり、これはデート。
「ッ!? ジータッ!」
「きゃっ!? いっ……たた……。ベリアル……?」
 人間の書物に書いてあったことを実践しているということに心を躍らせ、ルンルンな気持ちで散策していると、突如ベリアルが声を張り上げ、ジータを突き飛ばした。近くの木にぶつかったジータは痛みに呻きながらベリアルを呼ぶも、返事はない。
 突き飛ばされた瞬間、まばゆい光がベリアルを包んだのを見たが、あの光はなんだったのか。まさか攻撃を受けていたのか。強い不安に駆られながらもふらつく視界を振り払うように軽く首を振ると、地面に落ちている白い布が目に入り、ジータは顔を青くした。
「ベリアル……?」
 地面にあるのは紛れもなくベリアルの服。まるでベリアルがそのまま消えてしまったように綺麗に落ちている布たちを見て、ジータは最悪の想像をしてしまう。
「ベリアルッ!」
 悲痛の叫びを上げながら駆け寄ると、ジータはその場に膝から崩れた。今の今まで隣にいたはずのベリアルの姿がどこにもない。
 ルシフェルと同等の力を持つ唯一の存在をどうやって消したのか。まさか幽世や月なのか。様々な考えが巡るも、それらを一気に押し流すのは悲しみ。
 あまりにも突然過ぎて、感情をどうコントロールすればいいのか分からない。涙が溢れ、小さな子供のように泣き声を上げていると、不意に誰かの声が聞こえたような気がした。
 ジータはピタリと泣くのをやめ、涙を腕で拭ったところでまた声。しかも、自分の近く……そう、真下から聞こえる。
 ジータの眼下にあるのはベリアルの服。よく見れば少し膨らんでおり、もぞもぞと動いているではないか。
 上着の襟部分に落ちている赤い布を慌ててどければ、現れたのは短いながらもふわふわのダークブラウンと、くりっとした赤い宝玉を持つ──。
「あか、ちゃん……?」
「マ〜マ! あぅぅ〜!」
 ベリアルの面影がある赤子。子供はジータに向かってキャッキャ! と笑顔を振りまき、手を伸ばしてくる。なにがどうなっているのか。混乱を極めるジータだが、己の両頬を打って喝を入れると、ベリアルと思われる赤ん坊をそっと……抱き上げた。
 ベリアルが身につけていた軍服の上着に包まれた赤ん坊は無垢そのものの笑顔をジータに向けており、彼女のコアを発熱させる。だが普段ベリアルに対して抱く熱ではなく、どこか優しい熱。そして湧き出る感情はムズムズとしており、庇護欲が際限なく溢れて止まらない。
「あなた、ベリアルなの……?」
「ベーぁぅ?」
(記憶を失っている……? 分からない。でも)
 ベリアルの様子からして記憶がないのかと思うジータだが、この場ではなにも分からない。
 とにかくベリアルが生きていてよかった。たとえ赤ん坊の姿になってしまっても、彼のコアさえ無事ならば後はルシファーに頼めばなんとかなるはず。
 ジータはベリアルを傷つけないよう、抱く力に気をつけながら立ち上がると、来た道を戻っていく。あの光はなんだったのか。気になるには気になるが、今はベリアルを安全な場所へ移動させるのが先決。

   ***

「お父さまっ!」
「うるさい。なんだそんなに慌てて」
 周囲に警戒しつつも研究所に戻ってきたジータ。ルシファーがいるであろう執務室に行く間に何人かの天司や星の民に声をかけられたが、今の彼女の頭の中はベリアルのことしかない。
 普段ならば立ち止まって話をしたり、挨拶をする彼女だが、今回はそれらを無視して小走りで執務室へ向かい、大きな声とともに入ればうるさいと睨まれる。
 椅子に座って書類を眺めていたルシファーであるが、ジータの様子がおかしいこと、手になにかを抱いていることに手に持っていた紙を机の上に置いた。
「どうしようお父さま……ベリアルがこんな姿に……」
「赤子……?」
 ルシファーのそばまでやってきたジータが抱いているものを見せれば、すやすやと眠っている赤子にルシファーは目を見開く。
「なにがあった」
「私にもよく分からないの。森の中をベリアルとデー……散歩していたらいきなり彼に突き飛ばされて。その瞬間光が走って、そしたらベリアルが赤ちゃんに……。最初は幽世や月かと思ったけど、ここに帰ってくるまでに襲われたりもしてないし。ちょっと変だなって」
「……寄越せ」
 ルシファーの手がベリアルへと伸びるが、その手が触れることはなかった。ジータが後ずさりしたのだ。ベリアルを守るように抱きしめるその姿は母親そのもの。
 だがこの行動は無意識だったようで、ルシファーの冷たい視線を受けて我に返ったジータは戸惑ってしまう。
「ご、ごめんなさい……。その、ベリアルに乱暴しないで……」
「……分かったから早く寄越せ」
 無駄を嫌う性格の造物主の言葉にジータは体をこわばらせるも、従わないわけにはいかない。ベリアルをルシファーへと渡せば、彼なりに丁寧に扱いつつ、服の上から体に触れたりと簡易的な触診を始めた。
 本当に簡単なものなのですぐに終わったが、ルシファーはなにかを掴めた様子。「なるほど」と呟くと、腕に抱くベリアルへと向けていた顔を上げ、ジータを見た。
「ベリアルからは弱いながらもコイツ以外の星晶獣の力が感じられる。幼児化させる能力を持った獣だろう。だがそれは一時的なもの。いずれ元に戻る」
 不安げな表情でルシファーを見つめているジータに、彼は静かに見解を告げた。すると緊張の糸が切れたのかジータは安堵の息を吐き出す。ルシファーの言葉からするにそこまで大きな問題ではない。
 もしこれが永続的なものならば新しいボディを造ったりするかもしれないが、そういった発言もなかった。
 ルシフェルと同等の力を持つ存在なのだ。そう簡単におかしなことにはならない。分かっていたことだが、ルシファーに言葉にされると安心感がある。
 いずれは元に戻る。それまでは自分がお世話をしようと心に決めたジータはルシファーからベリアルを受け取ると、起きる気配のない愛し子の額に口付けた。
 こうして始まった新たな生活。ベリアルに起きた異変はルシファーやルシフェル、四大天司以外の者には伏せ、ベリアルは長期任務で留守にしていると説明していた。
 が、ジータが常に抱いている赤ん坊に疑問の声は尽きない。ジータは聞かれる度に新しい実験体なのと言って誤魔化せば、聞いてくる者たちも納得したようで、赤子のことを聞かれることもなくなった。
「あっ、ルシフェル。こんにちは。サンダルフォンのところに行くの?」
 白亜の建物。その廊下をベリアルを抱きながら歩いているときだった。向こう側から見知った存在がやってくることにジータは歩み寄る。
 ルシファーと同じ顔をした天司長ルシフェルはルシファーならば決してしないであろう温和な笑みを浮かべ、ジータと真っ白なおくるみに包まれたベリアルを見た。
 ふわりとした髪に赤いビー玉、ジータに大人しく抱かれている姿はとても愛らしく、見る者を癒やす効果があるのか、ルシフェルの表情をより優しいものへと変えた。
「ああ。仕事が一段落してね。……もう一週間か。戻る気配は?」
「ううん……。お父さまが言うには星晶獣の力は日に日に弱まっているらしいけど……。ふふっ。そろそろ戻ってくれないとお父さまのイライラが最高潮になっちゃうかも」
「友が?」
「そうなの。例えば……普段はベリアルが飲み物を用意してくれるから飲みたいときに手を伸ばせばカップがあるのにない。飲みたくてもベリアルがいないから自分で淹れるか、私に頼むしかないんだけど……私も最近は部屋でベリアルと過ごしている時間が長いからそれも難しくて。その他にもベリアルがいなくて不便なところがあるみたい」
 意外そうにしているルシフェルにジータは苦笑する。自分に与えられた役割としてルシファーに尽くしてはいるものの、どうしても優先順位は変わってしまう。
 あれは夕食の支度をしているときだったか。いつもならば料理を作り、配膳までこなすジータだが、ベリアルがぐずってしまったことがあった。
 抱っこしたことで泣きやんだが、両手が塞がってしまい、なにもできない。なのでルシファーに自分でお皿に盛るように言ったところ、不機嫌になったことを思い出す。
 ジータの中でルシファーが一番の存在だった。それが変わってしまったことになにか思うところがあったのかもしれないが、ルシファーはジータよりも年上。大人なのだからしばらくの間我慢してほしい。
「確かにベリアルは友に対してだいぶ世話を焼いていたように思う。……早く元に戻るといいな。君のためにも」
「私?」
「君とベリアルは──人間で言うところの“恋人”というものでは?」
 しれっと言われるものだから、ジータは固まってしまう。この関係はルシファー以外に言ったことがなく、外での触れ合いも気づかれないようにしていたはずなのに。
 一体いつから知っていたのか。相変わらずにこやかな笑みを浮かべているルシフェルと目を合わせることができない。
 一瞬で顔が熱くなり、生娘になってしまったジータは口をパクパクと開閉させるだけで言葉を発せず。
「もしも星晶獣に子供が宿せたのならば、今頃はその手に抱いているのは二人の子供かもしれないな」
 腕の中でじっとしているベリアルを見ての言葉に、ジータは想像する。中身は人間と同じものが詰まってはいるが、星晶獣には生殖機能がない。交わることはできても、子を宿すことはできない。それでももし、ベリアルとの……。
 そんな未来を想像してジータはベリアルを抱きしめる力を少しばかり強めると、探るような上目遣いでルシフェルを見つめた。
「ルシフェルはその……いつから私たちのことを?」
「少し前から。隠れて逢瀬を繰り返しているようだが、この際堂々としてみては?」
「もう、簡単に言わないでよ……。……ところで、星晶獣の手がかりは」
「極秘裏に調査はしているが難航している。短い期間らしいとはいえ、彼をある意味では無力化した星晶獣は脅威だ。君も十分に気をつけてほしい」
「ありがとう。……さあ、そろそろサンダルフォンのところに行ってあげて。彼、あなたが来るのをいつも心待ちにしているんだから」
「……そうだな。落ち着いたらまた一緒に珈琲を飲もう」
「うん。楽しみにしてる」
 身辺に気をつけるように告げるルシフェルにジータは頷き、別れた。互いに反対方向へと向かい、ジータは自室に戻るための道を進んでいると、ベリアルが二つのルビーレッドを若干潤ませてジータを見てくるではないか。
 言葉にして自分の意思を伝えることができない彼。その目はなにかを訴えるかのようにジータを見つめ続ける。
「もしかしてお腹空いたの?」
「あ〜ぅ!」
 立ち止まり、聞けば当たりだったようで、ベリアルはニコニコしながら嬉しそうな声を上げる。それだけでジータの心は癒やされ、自然と優しい笑みがこぼれる。
 たまにベリアルから“ママ”と呼ばれるジータだが、今の二人の関係は本当の親子のようだった。
「帰ったらすぐにご飯あげるから待っててね」
「ジー、ジータちゃん」
「ん? あなたは……?」
 控えめにジータの名を呼ぶ男の声に、ジータが顔を上げれば少し離れた場所に星の民の姿があった。顔はフードを深く被っているので分からないが、研究所にいるのだ。研究員の一人だろうとジータは想像する。
 ジータの前までやって来た男。目元が隠れているのでどこを見ているのか分からないが、なんとなく嫌な感じがして横抱きにしていたベリアルを縦に抱き直す。
(誰だろう……?)
 研究所の人間とはそれなりにコミュニケーションを取ってはいるが、入れ替わりが多かったりするので新顔だと覚えられない。
 また、一度話したことがあれば大体は覚えているのだが、ジータの記憶の中には彼に関するものはなかった。
「大変だね。所長の世話に加えて副官の世話まで」
「ベリアルのことですか……?」
「え? あ、いや……なんでもない。頑張ってね。それじゃ」
 副官の世話。その言葉が引っかかり、表情を曇らせれば男はどこか慌てたように口を開くと行ってしまった。その背を見送ったジータは男の言葉を反芻させ、やっぱり変だと険しい面様へと変わる。
 ベリアルが赤ん坊になってしまい、ジータが世話をしているのを知っているのはルシファー、ルシフェル、四大天司のみ。それ以外の者たちにはベリアルは長期任務を下されたと伝えてある。
 極秘中の極秘事項をなぜあの星の民が知っているのか。気になるものの、ベリアルが泣き始めたので思考中断。部屋へと戻るのだった。

   ***

「お待たせベリアル。はい、ミルクだよ〜」
 自室に戻ってきたジータは椅子に腰掛けると、胸元が大きく開いているワンピースから片方の乳房を出し、ベリアルに先端を咥えさせた。
 そう。ベリアルに授乳しているのだ。
 最初は母乳など出なかった。だがベリアルが服の上から吸い付いてきたことがあり、もしかして吸いたいのかな? と思ったジータはなにも出ないながらも先端を咥えさせ、ベリアルに吸われる……という日々を送っていた。
 すると不変の存在である星晶獣という種族だというのに、ジータの乳首からは母乳が滲むようになり、今ではすっかり彼のご飯になっている。そしてベリアルに吸って貰わなければ乳房が張って痛い。
(このベリアルも可愛いけど、やっぱり……)
 脳裏に浮かぶのは美しい男の姿。あの豊満な胸に顔を寄せて抱きしめたい。彼のたくましい体を感じたい。聞けば甘く蕩けてしまう低い声を聞きたい。色んな欲求が溢れ、それはジータを苛む。
「っ!?」
 刹那、背後から感じた視線。慌てて振り返るも、レースカーテンの引かれた窓の向こうには誰もいない。
(気の、せい……?)
 カーテンの向こう側には見知った風景が広がるばかり。人の姿もない。
 無力なベリアルを守ろうとする気持ちが過敏にさせているのか。あの怪しい研究員の件もある。
「あっ、ごめんねベリアル。急に動いてって……ふふっ。寝ちゃった」
 胸元に抱くベリアルの動きが止まったことに顔を下げればウトウトと眠そうにしている赤子の姿。ジータが慈しみの目を向けていると紅い瞳は閉じられ、ベリアルは眠ってしまった。
 星晶獣ではあるものの、人間の赤ん坊と変わらない様子に無尽蔵の愛が溢れる。だがその中にほんの少しだけ混ざる寂寥せきりょう感。
 子供のベリアルも、大人のベリアルも、愛しいことには変わりないのに。

   ***

 謎の男と出会った次の日。部屋でベリアルと二人きりはなんとなく不安に思ったジータはルシファーのいる執務室で過ごしていた。
 ベリアルを含む天司たちが誕生する前は実験のサポートだったり、日常の世話などルシファーに付きっきりだったが、今はベリアルが副官の仕事をしながらサポートをしているのでずっとそばにいる……ということはなくなった。
 一緒の時間を過ごす中で特別なにかをするわけでもない。だが、ジータはルシファーのそばにいるだけで安らぎを感じていた。同じ空間にいるだけでとても落ち着くのだ。
 ルシフェルがサンダルフォンに対して“安寧”と表現するのと同じ。ジータにとってルシファーはそういう存在なのだ。
「おい、この本を書庫に戻しておけ」
「分かった。けどその間ベリアルの世話をお願いね」
 ソファーに座りながら布に包まれたベリアルと戯れていると、今まで本を読んでいたルシファーが読み終わったのか、本を閉じるとジータに一つの命を下す。
 ルシファーのいる机に山積みにされた本たち。その高さは椅子に腰掛けるルシファーの頭より高い位置。一般的なページ数の本から分厚いものまで、ランダムに積み上げられている。それを片付けろという命令。
 ジータにとっては今日に至るまで何回も受けた命令なので特に驚くこともせず立ち上がると、ルシファーにベリアルを抱かせた。無理やり押し付ける形になってしまったが、ルシファーは受け取らないわけにもいかず。中性的な顔に映える青星を細めてジータを睨むが彼女にとってはどこ吹く風。
「ファ〜! ぱーぱー!」
「ふふっ。記憶がなくてもあなたがお父さんだってこと、分かってるんだね」
 本が落ちないようにジータが積み直していると、ベリアルがニコニコと笑いながら嬉しそうな声を上げる。ルシファーの名前を呼び、なおかつ、パパと呼ぶ辺り本能で分かっているのだろう。
「鬱陶しい……。早く行って戻ってこい」
「うん。じゃあ行ってくるね」
 ひょい、と本たちの重さを一切感じさせずにジータは持ち上げる。羽もなく、天司よりも能力が劣ると自分で言う彼女ではあるが、れっきとした星晶獣。
 絶妙なバランスを保ちながら部屋を出ると、順調に書庫への道を進んで行く。
「こんにちは、ジータちゃん」
「あなたは昨日の……」
「よかった。覚えていてくれたんだね! 嬉しいなぁ……!」
 廊下でいきなり声をかけられるも、本に視界を遮られて見えづらい。本の陰から顔を出せば、いつ現れたのか昨日の星の民の男が目の前にいるではないか。
 フードを深く被っているので相変わらず顔は分からないが、口元には声音と同じ感情が浮かび、嬉しそうな雰囲気が伝わってくる。
「これは所長に頼まれたのかな?」
「えぇ、まぁ……。書庫に戻しに行く途中なんです」
 ベリアルがいないため、昨日ほどの警戒心はないが、それでも用心するに越したことはない。
 なんとかしてこの男との会話を終わらせたいと思考を巡らせていると、腕にあった重さが軽くなるのを感じ、考えを中断させて視覚情報を得ようとすれば、手に持っていた本が半分なくなっていた。
「この量を一人じゃあ大変だろう? 手伝うよ」
「あ、ありがとうございます……」
 断るにはもう遅く、冊数が減った本を見てジータは無理やりの笑みを浮かべる。さすがにもう大丈夫ですと断りの言葉は言えない。
 こうなってしまっては仕方がない。書庫に本を戻したらすぐにルシファーの部屋に戻ろう。そう心に決め、ジータは歩き出す。
 並んで歩く男とジータの間の距離が妙に近いことに違和感を感じるも、ジータがそれとなく離れてもすぐに距離が詰められてしまう。
 ベリアルによって性知識というものを知る前ならばただの親切な人だと思うのかもしれないが、知識のある今のジータは男から変な感情が伝わってくるようで嫌だった。自意識過剰だと言われてしまったらそれまでだが。
 ああ、これが知っている人や天司ならばなんとも思わないのに。
 ジータは一方的に話かけてくる男に対して当たり障りのない答えをしながら内心思い、早く書庫に着いてほしいと切に願う。
「それにしても所長も酷いな。ジータちゃんにこんな重い本を一人で運べだなんて。他にも色々命令されているんだろう? 嫌になったりはしないの?」
「そ、そんなこと! ありません……。たしかにお父さまの下す命令に大変だと思うことはありますけど、嫌だとは思いません」
 思わず立ち止まって大きな声を出してしまった。ルシファーの普段からの振る舞いは他者に快く思われていないことは知っている。それでも、少なくともジータ自身はルシファーに与えられる仕事に大変だと思ったことはあれど、必要とされることに喜びを感じていた。
「ごめん。ちょっと言い過ぎた。けど……そう思うのは君の役割のせいなのかな」
「私はお父さまに与えられた役割に満足しています。それに、役割を与えられなかったら今頃は……。だからお父さまには逆に感謝してるんです」
 ──廃棄。その二文字が頭に浮かぶ。当時でさえも廃棄は嫌だと強く思っていた。それでもデータの取り終わった被験体に用はない。それは理解していた。
 死を覚悟していたときに垂らされた一本の細い糸。その先に待っているのがどれだけ苛烈だったとしても、ジータにとっては救いそのものだった。
「……そう」
 どこか物悲しそうに男は呟き、それきり会話は途切れてしまった。沈黙が重苦しいとは思うものの、足を動かすことに集中していればようやく書庫に着いた。
 様々な書物が納められているこの部屋はとても広く、担当の星の民がいるくらいだ。だが今は留守にしているのか誰もいない。
「ここに置いておけば後で担当が戻ってきたときに処理するだろう」
「ここまでありがとうございました。端末の動かし方は知っているので後は私がやります」
 普段担当の者がいるカウンターに男は持っていた本を置き、ジータも同じように置く。本の持ち出しに関する情報は全て端末で管理されており、その端末の操作方法を知っているので自分で処理しようとするジータに男は大人しく帰ると思いきや。
「なら俺も手伝うよ。ここまでやったんだ。最後までやらせてほしい」
「……お仕事はいいんですか? 研究員の方ですよね?」
「いいのいいの。さっ、端末を動かして」
「分かりました……」
 ジータが遠回しに断りの言葉を言うも、男は気にも止めず逆にジータを急かす。はっきりと強い言葉で断ることができない彼女はこういうときお父さまだったら簡単に断ることができるんだろうなぁ、と心中苦笑いしながら仕方なく端末の操作を始めるのだった。

   ***

「これで最後っと……。ッ!?」
 ふた手に分かれて本を棚に戻し、ジータが最後の一冊を棚に押し込んだときだった。突然背後から抱きしめられたのは。
 誰なのか考えなくても分かる。ここにいるのは自分と星の民の男だけなのだから。
 耳にかかる男の吐息に全身に鳥肌が立ち、コアが警鐘を鳴らすかのように脈打つ。これがベリアルならばこの身を委ねて甘えるのだが、悪印象を抱く見知らぬ男に対して感じるのは底知れぬ恐怖。
「ジータちゃん……」
「や、やめてください……! 離れて……!」
「俺は君を救いたいんだ。役割から解放されて、自由になってほしい」
「意味が分からない……!」
 この男はなにを言っているんだ。理解ができない。いいや、男の言葉を理解することを脳が拒否する。
「その役割から解き放たれて、俺を見てほしい。俺、君のことが……」
「いやぁっ!」
「うっ!?」
 なにも思っていない、むしろ良く思っていない異性からの過度な接触に心が悲鳴を上げ、耐えられなくなったジータは衝動のままに叫び、逃げようと暴れだす。
 ジータが暴れたことによって彼女の腕がどこかに当たったのか、男は痛みに呻き、その一瞬を突いてジータは男の腕から逃れると脱兎の如く書庫から出ていく。
 早くルシファーとベリアルが待つ部屋に帰りたい。そこに行けばもう安心。なにも怖いことはない。そう自分に言い聞かせて走る。
(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!!)
 他人に対してこんな気持ちを抱くのは初めて。まさかこんな負の感情が自分にあったなんて。
 今すぐに消し去りたい忌まわしい記憶。触れられた場所の皮膚を剥がしたいという暴力的な思考に沈みながら夢中になって走っていると、気づけば目的の部屋の前にジータは立っていた。
(……大丈夫。私は大丈夫。こんなことをお父さまに気取られるわけにはいかない……)
 ベリアルならば親身になって話を聞いてくれるとは思うが、ルシファーはそういうタイプではない。言ったとしても興味を示さないだろう。
 深呼吸を繰り返し、コアも落ち着きを取り戻したところでドアノブへと手を伸ばし、入室すれば開口一番「遅い」と鋭く、低い声が耳に届く。
 ああ、いつものお父さまだ。あの異様な空間から戻ってきたんだとジータは安堵する。
「ごめんなさい。書庫担当の人がいなかったから代わりに本を戻してて。ベリアルはいい子にしてた?」
「見ての通りだ」
 言われて見てみればルシファーに抱かれているベリアルの口には薄手の黒い手袋に包まれた人差し指。もみじの手でそれを掴み、一生懸命に吸っている。
「ふふっ。可愛い……。お腹空いてるの? ベリアル」
 ルシファーからベリアルと受け取り、ぷっくりした白い頬を指でぷにぷにと軽く触れながらソファーに腰掛けると、ジータは胸元の布を下げ、ベリアルの頭がある方の乳房を露出させた。
 ツンと尖った桃色の乳首が口に触れるとベリアルは口に含み、母乳を吸われる感覚にジータは優しい笑みを向けながら目線を愛らしい子へと向ける。
「おい、なにをしている」
「え? ベリアルにご飯あげてるんだけど……」
「なぜ授乳行為をしている。まさか母乳が出るのか?」
「うん。最初は咥えたがっていたから好きにさせていたんだけど、吸われている内に出るようになって」
「星晶獣が人間の女のように……」
 そういえばルシファーに母乳の件は伝えていなかったことを思い出し、ジータは困ったように笑いながら言葉にすると彼は考え込むように呟き、引き出しからなにかを取り出すと立ち上がった。
 スタスタと歩き、ジータの横に腰を下ろした彼の手には三角フラスコ。それを見てルシファーがなにをしようとしているのかが分かり、ジータは赤面してしまう。
「この中に母乳を出せ。星晶獣であるお前から分泌されるものがどんな成分なのかを調べる」
「それって調べる必要ある……?」
 乾いた笑いしか出てこないが、こうなったルシファーは強情だ。研究者としての純粋な興味。
「私、いま手が離せないからお父さまがやってくれる……?」
 両手でベリアルを抱いているため、自分でできないことを伝えると、ルシファーの眉間に皺が寄る。それでも知識への欲求は抑えられないのか、ルシファーはジータの衣服に手を伸ばすと張っている様子の乳房を露出させた。
 先端からは白い液体が滲み出ており、ルシファーは無表情のままフラスコを近づけると容器の中に乳首を収め、必要分の母乳を搾ろうと搾乳を開始した。
「いっ……! 痛いよお父さま……。もっと優しく……あっ、んっ……」
「変な声を出すな。ベリアルと交わり、奴に影響されたか」
「だってお父さまが変な触り方するからっ……! ふ、うっ……!」
 手加減のない揉み方に痛みを訴えると、彼にしては珍しくジータの要望を聞いてくれた。が、今度はルシファーに揉まれる度に体に甘い電流が走り、ベリアルとの情事に出てしまうような声が漏れる。
 なんとか我慢しながらガラス瓶の中を見れば、白い血液がいくつかの線を描きながら底へと溜まっていくのが見えた。
 吸われているときは見えないので特になにも思わないが、こうして目にするとなんだか変な気分になってしまうのは、ルシファーの言う通りベリアルとの交わりのせいなのか。
 悶々としながらも、生殺し状態に耐えるしかないジータ。それでもこの部屋に戻ってくるまでコアの辺りに重くのしかかっていた暗い気持ちは霧散し、消えていた。

   ***

「なんだか落ち着かないな……」
 色々あった日の夜。一日の仕事を終えたジータは寝室でベリアルとともに横になっていたのだが、いつまで経っても眠りに落ちることができなかった。
 今までは自分の部屋は安心できる場所だったのに、例の件があってからはそう思えなくなってしまった。まさかこの平穏が崩れる日がやってくるなんて。
(お父さまのところに行こうかな……)
 ジータの隣の部屋はルシファーの部屋。今頃は寝室で眠っているだろう。
 こんな時間から部屋を尋ねるのは迷惑だとは分かっている。それでも胸にくすぶるこの闇を払うためには彼が必要なのだ。
 そう決まれば行動あるのみ。すぅすぅと眠っているベリアルを起こさないように慎重に抱き上げ、部屋を出れば辺りは闇が満ち、静寂に包まれている。
 念のために辺りに目を凝らして確認してみるも、人の姿は確認できない。そのまま隣の部屋へと向かい、試しにドアノブを回してみればなんと鍵が開いているではないか。
 本当に不用心な人だと苦笑しつつ、入室すれば広々としたリビングがジータを迎える。リビングにはいくつかの通路が伸びており、それぞれキッチンだったり浴室や洗面所などに繋がっている。
 肝心のルシファーの気配は、寝室から感じた。
「お父さま、起きてる……?」
「入れ」
 寝室のドアの前に立ち、ノックの代わりに扉の向こうに声をかければ入室の許可が下された。よかった、まだ起きていたと極力音を立てないように扉を開けば、一人で寝るには大きいサイズのベッドにルシファーの姿はあった。
 ヘッドボードに寄りかかり、ナイトテーブルに置かれている間接照明の明かりを頼りに読書をしている彼は、黒いインナー姿とだいぶ楽な格好。
 ルシファーはジータが部屋に入ってきても本に視線を落としたまま、顔を上げることさえしない。だがジータは普段と変わらないルシファーの様子にほっこりとした笑みを浮かべた。
(やっぱりお父さまと一緒にいると落ち着く……)
「夜更けになんの用だ」
「なんだか眠れなくて。お父さまと一緒なら寝られるかなって思ったの。……隣に寝てもいい?」
 ちらり、とジータを一瞥したルシファーの視線は再び本へ。それでも長年彼と生活をしているジータには許可が下りたことが分かり、ありがとうと言葉を紡ぐとルシファーの横、空いている場所に腰を下ろす。
 ルシファーと自分で挟む位置、真ん中にベリアルを寝かせるとジータも横になる。ルシファーの香りに全身を包まれているようで、非常に心地いいと目を閉じて表情を和らげれば、羊皮紙をめくる音が聞こえた。
 自分の世界に没入しているルシファーからジータへかけられる言葉はないが、それでいい。そばにいることを許してくれるだけでジータは満足なのだから。
 あの男はジータが不幸だと言わんばかりの言葉を連ねていたが、ジータは一度も己が不幸だと思ったことはない。逆に造物主に感謝をしていた。彼が役割を与えてくれたことで今こうしてこの場に存在できて、ベリアルという愛しい人に出会うこともできたのだから。
 大好きな人の香りが満ちる空間で大好きな人たちと同じベッドで眠る。至上の幸福に満ち足りながら、ジータは意識を落とした。

   ***

「ん、う……」
 窓の向こうから鳥のさえずりが聞こえ、眠りの世界から現実の世界にジータは戻ろうとしていた。未だ意識は完全覚醒には至らず、身をよじればなにか温かいものに肌が触れた。
 なんだろう? と思い、重たい瞼を上げれば、そこには筋肉質な男の体。しかも裸。明らかにルシファーの体ではない。ならば導き出される答えは一つ。
「ベリアルッ!?」
「ん……? あぁ、おはようジータ……。大きな声を上げてどうしたんだい……?」
 飛び起きたジータの視線の先には元の姿に戻っているベリアルがいた。彼もジータの声によって目覚め、目覚めたばかりの気だるげな表情にかすれ気味の甘ったるい声は誰もがドキッとするだろう。
 普段のジータならば頬を赤らめながら控えめに朝の挨拶を返すところだが、今のジータは目を潤ませ、彼の名前を呼ぶと胸に飛び込んだ。
 彼の豊満な胸に顔をうずめ、泣きじゃくりながら抱きしめる。この感触が少しの間なかっただけでこんなにも懐かしく思うなんて。
「朝から熱烈な抱擁じゃないか。それに……この状況ナニ? ジータは分かるけどなんでファーさんも同じベッド……ってここファーさんの寝室じゃないか。オレたち3Pでもしたのかい? 記憶が全くないんだが」
「ベリアルぅっ……ベリアルっ……!」
 ベリアルからしてみれば朝起きたら突然ジータに泣かれ、隣には眠っているルシファー、そしてここは彼の部屋。いったいどういう状況なのか理解できないのも無理はない。
 もしかして三人でシたのかと軽口を叩くが、ジータは泣くばかりで答えることができず。よしよしとあやしながら困り顔をする美青年にジータの代わりに答えてくれたのは不機嫌そのもの、地の底から発したような声とともに起き上がったルシファーだった。
「朝からかしましい……! 元に戻ったのなら早急に自分の部屋に戻れ、ベリアル」
「元に戻った?」
「なにも覚えていないようだな……。お前は“それ”の代わりに星晶獣の攻撃を受け、昨日まで幼児化していた。それだけだ」
「簡素で的確な情報ありがとうファーさん。たしかに覚えているよ。ジータを攻撃から庇ったこと」
「ベリアルっ……よかった、元に戻って本当によかったよぉ……!」
 本当はもっとたくさんのことを話したいのに、言葉が出てこない。よかったと繰り返すジータをベリアルはなだめすかし、ようやくジータにとって本当の日常が戻ってきた。
 ベリアルが赤子になっていたことを知っている者たちは彼が元に戻ったことを喜びつつも彼が赤子だったとき、どれだけジータが可愛がっていたかを話し、ジータが顔を赤らめることもしばしば。
 ジータたちを襲った星晶獣の行方は相変わらず不明なものの、一日、また一日と日が過ぎていき、ジータの胸にあった不穏の種も消えようとしていたときだった。──例の男が接触してきたのは。
 時刻は夕方。外は夕焼け色に染まり、どこか切なさを感じる空。自分の部屋に戻ろうとベリアルと廊下を歩いているときに二人の前に現れた星の民。だが今は隣にベリアルがいるため、ジータに恐怖心はなかった。
「あなたは……」
「君にどうしても謝りたくて……。この間は急にあんなことをしてごめんね」
「いえ、別に気にしてないので。それじゃあ私はこれで……」
「待ってくれ!」
「っ……!」
 どうしても硬い表情になってしまうのは当然のこと。ジータは険しい顔を貼り付けたまま、いつもは優しい彼女の口調とは思えないほどに事務的に返し、男の横を通ろうとしたところで掴まれた腕。
 あのときの出来事がフラッシュバックし、ジータはその身をこわばらせ、ベリアルは男の行動に不快感を示すように目を細める。
 今の彼の目はまさに蛇のよう。見た者を硬直させる眼差しだが、男の目に映るのはジータだけのようだ。ベリアルはいない者同然。
「これだけは言わせてほしい。俺は君の幸せを願っているんだ。今の君はあまりにも窮屈だ。研究所に軟禁されているのも自覚してないだろう?」
「や、やめて……」
 ベリアルが隣にいるのに、忘れかけていた恐怖がジータを支配し始め、鼓動を速めるコアの音すら聞こえてきそうだ。
 こういうときこそ落ち着かないといけないのに、ベリアルがいるから怖くないはずなのに、心と頭は違う反応をしてしまう。
 体を震わせてパニック状態に陥りそうになっているジータを見て、これはもう無理だとベリアルが動き出す。
「そこまでにしていただけますか。ジータが怖がっている」
 男の腕を掴み、天司長副官として苦言を呈すれば言われた男はベリアルの手を振り払うように腕を振り上げ、激怒する。
「うるさいっ! お前には関係ないだろ!? 顔だけが取り柄の無能がなんでジータちゃんの隣を歩いていられるんだ! 天司長ならまだしも──ぐうっ!?」
 ベリアルに対する罵詈雑言を連ねる男の言葉を遮るように、乾いた音が廊下に広がっていく。
 男に向かって飛び出したのは、ジータだった。
 ジータに頬を張られ、その力のままに吹き飛び、尻餅をつく男はショックを受けたのか、打たれた場所を片手で押さえたまま動けない。
「……私のことならなにを言われても我慢できます。でもこの子のことを悪く言うのは許せません! それに私の幸せは私が決めます! あなたには関係ない!」
 涙を滲ませながら思いのままに叫び、言い終わるや否やベリアルの手を取り早歩きで歩き出す。
 ジータの怒りを受けた男は遠くなっていく二人の背中を、ただ呆然と見つめているしかなかった。

   ***

「ごめんねベリアル、取り乱しちゃって……。あと、助けてくれてありがとう」
 互いに無言状態で部屋へと戻ってきたジータはベリアルの手を放すと疲れたような足取りでソファーへと座り込み、がっくりとうなだれる。
 激しい感情。怒り自体は抱くことは少ないが、初めてではない。それでも怒った後は疲れるので激烈な赤いエモーションはジータの心身を著しく疲弊させた。
 加えて身の危険がない場面での暴力。気づいたら体が勝手に動いていたのだ。
 許せなかった。ルシファーまでならずベリアルまでも。彼が公の場ではそういうふうに自ら振る舞っているとは知っているが、ああして面と言われると腹立たしかった。
「オレのいない間、あの星の民となにかあったのかい……?」
 ベリアルも隣に座ると、ジータの髪を撫でながら聞いてくるが、いざこうして聞かれると言葉にしたくなくなる。そもそも思い出したくもない。
「ううん。大したことはないの。ただ……知らない人に一方的に押し付けられる恋愛感情が……気持ち悪いな、って」
 もしかしたら今まで気づいていないだけで、他にもそういう感情をジータに抱いている者がいたかもしれない。だがこうして行動にされたのは初めてで、自分の中にここまでの負の感情があったことに驚きを隠せない。
 恋愛感情なしの好意は嬉しいが、ありになってしまうとなによりも先に嫌悪感を感じてしまい、少しばかり胸が曇る。
「キミの様子からして自分の中にそういう感情があることを否定したいようだが……それは正常な反応さ。嫌悪する必要はない」
 ベリアルの方を向けば穏やかな笑みを浮かべており、ジータの暗い気持ちを消してくれる。彼の優しい表情にジータも微笑み返すと、思い出したかのように一つの欲求が生まれた。
「ねえベリアル。後ろからぎゅっ、ってしてくれる?」
「前からじゃなくて?」
「うん。後ろからがいいの」
「仰せのままに」
 ジータが背を向ければベリアルは特に理由も聞かず、願いを叶えてくれた。
 ベリアルの温もり、香り、肌の感触。その全てが星の民の男を上書きしてくれる。
 一般的な恋愛観からすれば自分たちの関係は少しばかり歪んだものかもしれないが、それでも彼が愛おしい。ベリアルがジータの中で一番になれないように、自分が彼の中で一番になれなくてもいい、二番目でいいから愛してほしい。
「……うん。ありがとうベリアル」
「もういいのかい?」
「うん。あと……ね、思い出したことがあって」
 心ゆくまで満足したジータはベリアルに感謝の言葉を述べ、体を離して彼と向き合う形になる。
 思い出したこととはあの男のことだ。初めて会ったとき、意味深な言葉を言っていた。
 証拠がないのでルシファーやルシフェルには伝えていなかったが、ベリアルならば話しやすい。
「さっきの男の人……初めて会ったとき、気になることを言っていたの。所長の世話に加えて副官の世話まで、って。表向きはあなたは長期任務に行っていることになっていて、事実を知っていたのは私、お父さま、ルシフェルと四大天司だけ。しかも極秘中の極秘事項だから誰かが漏らしたっていうのも考えにくい」
「それは怪しいな……。ファーさんには伝えた?」
「ううん。証拠もないし……」
「分かった。この件はオレに任せて」
「……なにからなにまでありがとうベリアル」
「どういたしまして。ところでジータ。さっきのビンタ、スナップのきいた良いビンタだったよ。個人的にはグーで思いきり殴ってもよかったくらいだが」
 ジータも気持ち的には彼の言うようにグーで殴りたかったところだが、自分は星晶獣。実行してしまったら軽く吹き飛ぶだけでは済まないだろう。現にビンタでも相手が──距離は短いとはいえ、吹っ飛んだのだ。
「私もあんなに怒ったのは初めてかも。……はぁ。ちょっと疲れた……」
 ぽすん、とベリアルの胸に倒れ込めば柔らかな膨らみが優しく受け止めてくれる。ぎゅうぎゅうと強く抱きしめ、肺いっぱいにベリアルの香りを吸い込み、深く吐き出せばやっとジータにとっての日常──ベリアルがいる生活が戻ってきたのだと実感できる。
 赤ん坊のベリアルも愛しかったに違いはないが、やはり元の姿の彼が好きだという気持ちが溢れる。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
 静かな声が頭上から降ってきて、頭を撫でられる。ジータ自身よくサリエルを膝枕して撫でたりはしているが、誰かにしてもらうことはまずない。彼女は天司たちにとってある意味では母であり、姉である存在。与えるばかりで与えられることはほぼない。
 ベリアルに甘やかされて、忘れようとしていた悔しさが流れ出す。許せなかった。自分のことをなにも知らない相手に不幸だと決めつけられたようで。自分はこんなにも幸せだというのに。
 封じ込めていた感情が決壊し、それは雫となってベリアルの服を濡らす。
「……ねえ、私、幸せだよ。役割とか関係ない。お父さまのそばにいられて、ベリアルを好きになって、みんなとこうして過ごせて、私……」
「ああ。分かってる」
「私、不幸なんかじゃないもん……」
「もちろんさ」
 いつもは元気という言葉を体現したような存在の弱々しい姿。ベリアルは声を押し殺して胸中を吐露する少女を深く抱きしめてやり、背中を優しく叩きながらうんうんと頷き、彼女の全てを肯定し、聞くに徹している。
 部屋の窓から差し込む茜色に照らされながら、二人きりの時間は静かに流れていく……。

   ***

「ジ、ジータちゃ、──お、お前は……!」
「まさか本当に来るとはねぇ……。罠とは思わなかったのかい? ハハッ。ジータがキミのことを誘うわけないじゃないか」
 誰もが寝静まる時間。深い深い森の中で。ベリアルは一人の男と会っていた。男は背後からの足音に嬉々とした様子で振り返ったが、思っていた人物とは違う存在に言葉を失う。
 月下に輝く鮮紅は今の状況を考えると寒気を感じるほどに冷えており、ベリアルの不気味な雰囲気も相まって心の底が揺さぶられる……根源的な恐怖を男に与えた。
「ジータが知らないわけだ。キミは別の研究所から最近来たばかりの新入り。でもまさかここまでのことをしでかすとは」
 ジータの証言から男のことを調べ直したベリアルはとある情報を得ると、ジータが話したいことがあると男に嘘を吹き込んでこの場所を指定し、結果見事に男は引っかかったのだ。
「たしかに俺は新顔だ。だが……しでかす、とはなんの話だ。……俺はお前みたいな無能と違って忙しいんだ。失礼する」
「可哀想になぁ。もしジータが来たらオレにしたことと同じことができたのに」
「は……」
「これ返すよ。まぁ、破損していてもう顕現できないだろうけど」
 ベリアルは下ろされている手に握っていた物をぽいっ、と男に向かって投げる。キャッチした男の手の中にあったのは深い傷が入り、専用の機器で再生しなければ顕現できないであろう星晶獣のコア。
「なっ……!? 待機させていたのをいつ、壊して……!」
「キミ、前の研究所では面白い研究をしていたんだねぇ。不変の存在である星晶獣の姿に変化をもたらす星晶獣の研究。その集大成がソレってわけだ。なぁ、キミはジータを赤ん坊にしていったいナニをしようとしてたんだ? まさか自分の子供として育てようと?」
 演説をするようにワザとらしく両手を広げながら吐き出す言葉は男への嘲笑が込められていた。男もそれが伝わるのか、歯ぎしりをし、握られた拳が震える。
 ベリアルは男の様子をじっくりと見ながら、口角を上げ、邪悪な笑みを貼り付けながらさらに続けた。
「一時的に記憶も力も失い、人間の赤子同然になるのは正直オレも驚いたが……いずれは元の姿に戻る。ジータを幼児化したとして、その先はどうするつもり? まさか抑え込めるとでも? フフフ……彼女は自分のことを天司よりも劣る存在だと言っているがその実、常に進化し続けている」
「星晶獣が、進化……?」
「そう! 彼女はトクベツなのさ! あのファーさんでさえ意図しなかった存在。そりゃあそうだ。星の世界には存在しない、空の世界の特質である“進化”を秘める唯一の星晶獣なのだから」
「司る……管理とは違う存在ということか……!?」
「そういうコト。これはファーさんから聞いた話だが、あの人の性能は造られたときとはもう比べ物にならないそうだ。その理由がまた泣けてね。ファーさんの役に立ちたい一心で努力を重ね──今では羽すらないのに四大天司に迫る力を秘めている。自覚はしてないようだが。……このままいけばいつかはファーさんの最高傑作に匹敵する力を有するようになるかもなァ」
 ──そんな存在を、キミ如きが御することができるとでも?
 直接言葉にせずとも分かる圧。男はジータがそんな存在だとは露知らず。だが、諦めるつもりもないようだ。
「俺の実験では……この星晶獣の力を使用した獣は幼い姿となり、そこから数年かけて元の姿へと戻っていった。一度リセットされた記憶を思い出すこともなく、俺を親だと認識した。ジータちゃんもきっと……そう思ったがなかなか機会は訪れない。そんなときだった。ジータちゃんがお前と二人きりで外出した」
 ジータの自由行動をルシファーは認めず、かといってジータも軟禁されているとは思っていない中での外出。男としてはこれを逃したら次にいつチャンスがやってくるか分からない。
 だが、行動した結果ベリアルがジータを庇い、彼が一時的に幼児化することになった。それが男の実験結果とは違う結末になったのは、言うまでもない。
「さすがは所長の獣と言ったところか。望む結果にはならなかったが、いいデータが取れた。このデータを元にさらなる改良を施せば……」
「おいおい、この状況を理解できないのかい? ポジティブなのか、ただの馬鹿なのか……。まあいい。一つ聞いても? キミはなにをきっかけに彼女に好意を?」
「……あれはお前たち天司がまだいなかった頃。当時、別の研究所にいた俺はたまたまこの研究所に来ることがあった。そのときにジータちゃんに出会ったんだ。彼女の獣らしからぬ眩しい笑顔、純粋な優しさ。……一瞬で惚れたよ。そして元の研究所に戻ったあともどうしても彼女のことが忘れられなかった俺は……ジータちゃんについて色々調べた」
 ジータと出会ったときのことを思い出しているのか男は懐かしみ、フードに大半を隠された顔を恍惚に歪めるが、急にスッ、と冷えたものへと変わった。
「調べた結果、まあ酷いものだったよ。所長の興味の赴くまま実験を繰り返され、データを取り終わったら廃棄……からの役割を与えての更なる使役。彼女を道具としか見ていない言動。それなのに彼女は嫌な顔一つせずに所長のことを“お父さま”と呼び慕っている。……俺だったらいい父親になれる。所長が与えることのない愛だってたくさんあげられる! そして」
「そして相思相愛になりたいって? 他人の愛のカタチにケチをつけるつもりはないが……キミもなかなか歪んでるねぇ。自らの欲望に一直線。こんなことがなければキミとお友達になれたかも。なんてね」
「どこまでも苛つく奴だ……! なんでお前のような無能が彼女の愛を……彼女に、ジータちゃんにふさわしいのは俺────だ?」
 言葉を最後まで発せなかった首が胴体から離れ、ぽとりと地面へと落ち、コントロールを失った体もその場に倒れた。その一連の動作を見ていたベリアルの表情は無そのもので、視線も凍えてしまうほどの冷たさだ。
「ハァ……。それってギャグのつもり? 冗談だとしても笑えないんだけど」
 腕を横薙ぎに動かし、男を断頭したベリアルはその手を戻すと男の手からまろび出たコアに向かって歩む。
 たったいま殺人を犯したというのに、彼はなにも思っていない。逆に慣れている様子。
「あの人に、いいや。あの人がふさわしいのは──ファーさんだけさ」
 独り言のように呟き、コアを踏み砕いた。

   ***

「ねえファーさん。例の幼児化能力のある星晶獣、壊しちゃったんだけど……もしかして必要だったりした?」
「俺の作品に中途半端に手を加える獣など不要だ。それにあの手の星晶獣は造ろうと思えば造れる。アレよりも完成されたモノをな」
「さすがファーさん。そうだ。その獣をジータに使ってみない? ファーさんがパパでオレがママ。どう?」
「くだらん」
 晴れやかな昼下がり。ルシファーの執務室での会話。天司長副官という役職ではあるが、ベリアルは時間があればこうしてルシファーの部屋にやってくるのでもう見慣れた光景である。
 ベリアルが軽い口調でジータにその星晶獣を使ってみる、と提案してみるも、ルシファーは一刀両断。彼らのいつものやりとりだ。そんな中、部屋にノック音が響く。
「入れ」
 椅子に座って資料に目を通しているルシファーはノックの音だけで誰なのかが分かるようで、入室の許可を出す。
 すると入ってきたのは三人分のティーセットとケーキ皿が載ったトレイを持つジータだった。
 ケーキの種類はフルーツケーキ。ケーキを飾るのはたっぷりの生クリームとシロップでコーティングされた色とりどりの果物。
 綺麗にカットされたフルーツたちは窓から差し込む太陽の光を受けてキラキラと光っており、まるで宝石。
「ふふっ。二人でなにを楽しそうに話しているの? それはそうとケーキを焼いたの。休憩にしましょ」
 にこやかに笑い、甘い匂いを纏いながら部屋に入ったジータは応接時に使うローテーブルにトレイを置くと、まずはルシファーの分の用意を始めた。
 三つとも同じデザインのカップにポットの中身を注げば紅茶の香りが広がり、どこかホッとさせられる。
 用意も終わり、ジータがカップとケーキの皿を持ってルシファー前に置くも、彼は紙を見たまま。このまま放っておいたら食べるのはだいぶ後だろう。それをジータがよしとするわけがなく。
「もう、お父さまったら。ほら、書類はあとあと!」
 ルシファーの手から書類を奪うと横に置き、ずい、とケーキの皿を前へと出す。そんな彼女をルシファーが不満げに睨むものの、ジータは慣れっこなので華麗に受け流す。
「今日のは自信作なの! ね、早く食べて食べて」
 あまりにもジータが目を輝かせて言うものだから、根負けしたルシファーは渋々ながらもフォークに手を伸ばし、ケーキを一口。咀嚼して飲み込むまでの動作を見守っていたジータは探るように聞く。
「どうかな……?」
「……味は悪くはない」
「そっか。よかったぁ。あ、こんなところにクリームつけてる」
 簡単な感想だが、ジータにとっては嬉しい言葉。褒められること自体、心を躍らせてしまうものがあるが、それがルシファーだとなおさら。
 ケーキの評価に満足したところでジータはルシファーの口の端にクリームが残っているの見て、極々自然な形で手を伸ばすと指でそれを拭った。そしてそれは自分の口の中へ。
 微笑ましいやり取りにそばで見ていたベリアルの表情も和らぐというもの。
「なにニヤニヤしてるの、ベリアル……」
「いや? オレとしてはパパとママが仲良くしているのは見ていて喜ばしいことだからね」
「はいはい。ベリアルも座って。すぐに用意してあげるから」
「は〜い。マ・マ♪」
 ジータたちを造ったルシファーをパパと呼ぶのは分かるが、ママと呼ばれるのはジータにとって少しばかり違和感がある。が、こちらももう慣れたのでスルー。
 テーブルを挟むように置かれているソファーに互いに向き合うように座ると、ジータはベリアルと自分の分の用意に取り掛かり、ゆったりとしたブレイクタイムの始まり。
 会話を交えながらのひとときは、間違いなくジータにとっては幸福そのものだった。