ふと、寿命差を考えるとママの方が先にいなくなっちゃうと漠然と思った午後の授業中。
過ごしやすい気候の今日この頃。教科書の内容はもう全部頭の中に入っているから先生の話を聞いているフリをしながら急に浮かんだことは、自然の摂理だというのにまるで世紀の大発見をしてしまったかのように、すぐに私の頭の中を支配した。
そのまま気づけば授業どころか学校も終わっていて、家に帰ってきていた。器用なのか危ないのか。
「おかえり、ジータ。おやつができてるから手を洗っておいで」
玄関の扉を開ければ、ママがキッチンから出てきた。
柔らかそうなダークブラウンの髪にモデル並みの身長に整った顔。見た目は細めだけど筋肉質な体、誰もを魅了する低い声は神に愛されすぎている。
血のように真っ赤な目は柔和に細められ、いつもと変わらない優しい顔は見ているとどうしようもなく甘えたくなる。
別に自慢じゃないけどママの魅力的なプロポーションを受け継いだ私は男女問わずにモテる。
私の中にはママとそれ以外の人という認識しかない。だから虫除けついでに重度のマザコンを自称している。ママ以外の人には興味ないですよ〜って。けど、本当にマザコンなんだからしょうがない。
彼がいない世界なんて色あせて興味すらない。彼がいなくなったら生きていけない。こんなにも重い感情を抱くのはママが運命の番だから? ……そんなこと信じたくない。
私は、私の意志で、ベリアルという一人の人間を愛してる。そこに誰かの介入なんて認めない。
ママは専業主夫でいつも家にいてくれる。たまに買い物とかでいないけど、それでも私の帰りを迎えてくれることの方が多い。
私のいない日中、家事以外にナニかをしているとは思うけど、そこまで束縛したいわけじゃないから考えないことにする。ママだってまだまだ遊びたい年頃だと思うし、結局パパと……願わくば私以外には本気になれないと分かっているから。
「ママ……」
「どうしたんだい? いつもと少し様子が違うような気がするが……」
手を洗い終わり、リビングに向かえばキッチンでママがおやつの準備をしていた。その背中に抱きつけば、鍛えられたたくましい体が私をしっかりと受け止める。
ゼロ距離でのママのオメガのフェロモンはアルファであり、運命の番である私を虜にしてやまない。
ママは私の腕の中で体を動かし、正面から抱きしめてくれた。彼と私の身長差はだいぶあって、こうして抱きしめ合うと私の顔はママのふんわり肉厚な胸筋に埋まる。
黒のシャツに黒のパンツという着こなすのが地味に難しい服装だけど、世界で一番格好いいママにはとても似合っている。
そんなシャツのボタンは胸元まで外されていて、顔に直に当たる胸の感触は安らぎを感じ、私の心の中で渦巻く負の感情を一時的に忘れさせてくれた。
無意識のうちにぎゅうぎゅうと抱きついていたみたいでママからは少し心配されたけど、これは彼に言っても困らせてしまうだけ。ママが困るのは本望じゃない。
いつかはこの安らぎが私の腕の中から消えてしまう……。それは遠いようで近い未来。
それを考えてなんだか泣きたくなったけど、やっぱりママに変な心配をかけさせたくないから我慢。ただ甘えたいだけと嘘をついたけど、嘘はママの得意分野。きっと見破られているとは思う。
でもママは優しいからなにも言わず、ただただ私の頭を優しく撫で続けてくれた。
***
いつもは一階にあるママとパパの寝室で彼と一緒に寝るけど、今日は色々ひとりで考えたくなって二階にある自分の部屋で眠ることにした。
ベッドに入り、部屋の電気を消せば夜の静寂が広がっていく。真っ暗な天井を見つめて思うのは当たり前のようにママのことばかり。
たとえママがおじいちゃんになって、私がおばさんになってもこの愛は永遠に不変。ううん。愛なんて陳腐な言葉じゃ表現できないほどの感情。でも私たちは人間。永遠は……ない。
「永遠……不老不死……ここが魔法とか、そういうファンタジーの世界だったらあり得るのかな」
ああ、もし彼と永遠を過ごすことができたら。そう妄想を始めたら止まらなかった。大好きなママと一緒にいつまでも生きられる。なんて素敵なことなんだろう!
はたから見れば狂ってる私。自分でもそう思うけど、私はルシファーとベリアルの娘。彼らの血を濃く受け継いだ存在だもの。偏り過ぎているのは当たり前。
普段はこういう妄想はあまりしないけど、そんな素敵な世界がどこかにあったらいいな。
***
「う……ん……?」
どこからか風が吹き抜け、私の頬を優しく撫でていく。あれ? 私、自分の部屋で寝ていたよね? 不思議に思って目を開ければ、眼前に広がるのは草原。……草原?
慌てて自分の置かれている状況の確認に入る。
私は木に寄りかかるように眠っていて、周りは誰もいない草原がどこまでも広がっている。
「は……? 島が、浮いてる……!?」
少し遠くを見れば島が空に浮いていた。遠目から見ても結構な大きさがある島だというのに我が物で。まるで浮いているのが正常だというように。
吸い寄せられるように私はふらふらと歩き、道の途切れた先に広がる青に自分が立つこの地面も空に浮いている島のモノだと理解した。
「これ……夢……?」
夢を夢だと理解することができる明晰夢。きっとそれに違いない。眠る前に空想の世界に想いを馳せていたから変な夢を見てしまった。それしか考えられない。けど、どうして島が浮くなんて要素が……?
「キミもバブさんのように空の底にイキたいのかい? 特異点」
「……ママ?」
空の底は見えず、ここから落ちたら夢とはいえどうなってしまうのか。そんなことを考えていると、背後から聞き慣れた声がした。
振り返るとそこにはママがいた。でも……上下ともに黒い服はどちらかといえばファンタジー寄りで、なにより体に纏っている深紫のファーが妖しく揺らめくその姿は、人間ではないと直感するものがあった。
「どうしてママが……ぇ、きゃぁぁぁぁっっ!!!!」
突然だった。ママの方に歩み寄ろうとした瞬間、突風が私の体を浮かせ、気づいたときには空の底へと真っ逆さま。
風を切る音が耳をつんざき、今まで立っていた場所が遠くなっていく。この先の展開を考えれば……おそらく夢から覚めるんだろうけど。…………本当に?
夢は記憶の整理の役割を担っている。私はあんな格好をしたママを見たことがないし、島が浮くということを考えたことすらない。
妄想力が強すぎて生み出した産物? 様々な考えが走馬灯のように過ぎ去っていくと、落下するばかりの私の体が止まった。
「おいおい……! まさかキミに自死の願望があるとは驚いた。ハァ。どうせ死ぬならその身体、オレが有効活用してやるよ。たっぷりとね」
「は、羽……!? 飛んでる……!?!?」
不思議な格好をしつつもそれがよく似合っているママ? が私を助けてくれた。
その背には巨大な黒い六枚羽。まるで悪魔の翼。
彼は優雅にそれらを動かし、上昇していくとさっきの島の奥まったところに下ろしてくれた。これなら強い風が吹いても落ちたりしない。
「……なあキミ、本当に特異点か? なんだか妙な気配だ……」
「特異点? なにを言ってるの? ママ……。私だよ。ジータ」
「ママ? オレはキミを産んだ覚えはないが……」
目の前の人はベリアルのはずなのに。私を産んだ覚えがないと言う。
夢にしてはおかしなことが続いている。一体自分の身になにが起こっているのか。もしかして、これは夢じゃない? まさか、そんなことあり得るっていうの……?
「……オーケイ。まず、オレの名前はベリアル。キミはジータで間違いないね?」
「…………」
「そう警戒しないで。キミに危害を加えたりしないよ。約束する。……そうだな。おそらくキミは……別の世界からこの空の世界に迷い込んでしまったんだ。なに、この歪な世界ではままあるコトさ」
私の知らないママに自然と一歩下がってしまうと、彼はこちらの緊張を緩めるように、まるで小さな子どもに語りかけるように優しく私の置かれている状況を説明してくれた。
確かにここが別世界で、私が迷い込んでしまったならばすんなりと受け入れることができる。それにしても異世界からの来訪者が珍しくないなんて。どんな世界なの。
「ここが私の世界とは別の世界だとして、どうやったら戻れるの……?」
「大体は原因となる理由があるからそれを解決したり、偶然次元の穴が開いて帰れたりするが……キミの場合はどうだろうな? なにか心当たりは?」
「私はただ部屋で寝ていただけで、なにも……」
「手がかりはナシ、か……」
知らない世界に独りぼっち。そして目の前のこの人はベリアルだけど私のママであるベリアルじゃない。どうすればいいのか。
いくらパパ譲りの天才的な頭脳を持っている私だとしても、なにも情報がないというのは不安でしかない。
「な、なに……?」
顔に出ていたんだと思う。彼は私の頭を安心させるように撫でている。その手つきはママのそれと同じで胸が締め付けられるような気がした。
「キミが元の世界に帰れるまでオレが面倒を見てあげるよ。当然だろう? キミの世界のオレはキミの母親。なら別の世界のオレだってママを名乗ってもいいはずだ。現に今のキミにはオレの庇護が必要。そうだろう?」
どうしてだろう。その眼差しは優しいものなのに、瞳の奥からはこの状況を楽しんでいるように感じられる。やっぱり、この人はママだけどママじゃないんだ……。
けれど彼の言うとおり私ひとりじゃ生きていけない。彼の庇護下でないと駄目だ。この空の世界に迷い込んで初めて出会ったのがベリアルでよかった。
「よろしくお願い……します」
この世界に来てしまった理由は、たぶんママとの永遠を考えて。その思いが強すぎたから……空の世界と繋がってしまった。
どうすれば帰れるかは分からないけど、元の世界に絶対に帰らないと。
パパを亡くして、私までいなくなったらママがどうなってしまうか……想像するだけで震えてくる。
こうして私の空での不思議な生活が、幕を開けた。
終